【学長からのメッセージ2025.5】「聖母祭の学長のお話」より
星美学園短期大学 学長 阿部健一
「聖母祭の学長のお話」より
今日は、みなさんと一緒に聖母マリアをお祝いする日ですので、聖母マリアとはどのような方なのか、二つの出来事を通して、考えてみたいと思います。
1つ目は、受胎告知と言われるできごとです。
ある日、聖母マリアの所に、ガブリエルという天使がやってきて、「あなたは、妊娠して男の子を産みます」と告げます。聖母マリアは、もう、びっくりです。まったく心当たりがないのですから。
ですので、聖母マリアは答えます。
「どうしてそのようなことがあり得ましょうか?私は、まだ、男の人を知りませんのに」
天使は、聖母マリアに答えます。
「神様におできにならないことは、ありません」
この一言で、聖母マリアの疑念は、ぱーっと吹き飛んでしまいます。
そして、言います。
「私は主のはしためです。どうぞ神様のお言葉通りになりますように」
「はしため」という言葉に、「私は、決して、自分の人生の支配人、マネージャーではありません。ただ神様の手の中で、神様によって生かされている者にすぎません」という思いが込められているように思います。
逆に、「私は、自分の人生の支配人です。私は、自分の人生の隅々まで、すべて自分が仕切って、生きている者です」と思い込んでいる人であれば、次のように言うと思います。
「私のことは、私が一番わかっているんですよ、私が妊娠するなんて、ばかばかしいこと言わないでくださいよ」
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ところで、聖母マリアには、ヨセフという婚約者がいました。もし、婚約者以外の男性と関係を持ったということになれば、当時のユダヤ社会では、死刑にあたいするくらいの重い罪でした。
普通であれば、そんな危険を冒したくありませんから、「私にも事情がありますので、お断りします」ということになると思います。
しかし、聖母マリアにとって大事なことは、自分のことではなく、正しい選択をすること、行うべきことを行うことでした。
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もう1つの出来事は、愛する息子であるイエスの死です。
鞭打たれて皮膚がボロボロになり、棘のある茨の冠を頭にはめられ、愛する息子が、十字架に付けられて苦しみのうちに、自分の目の前で死んでいきます。
そのときの、聖母マリアの思いは、どのようなものだったでしょうか?
聖書には、聖母マリアが、泣き叫んだり、取り乱したり、恨みの言葉で呪ったりした・・・という記述は、全くありません。むしろ、聖母マリアは、目の前の現実を、静かな気持ちで受け止めているという印象を受けます。
それは、聖母マリアが強い意志を持って悲しみを抑える気丈夫な方だったからということではなく、聖母マリアの眼差しが、目の前の現実を超えて、もっと遠くを、つまり神の愛に包まれた世界・景色を見ていたからではないかと思います。
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スクリーンに写されたのは、ミケランジェロのピエタ像(我が家にあるレプリカ)の聖母マリアとイエス様の顔のアップです。
十字架上で苦しみの中で死んだ息子イエスを胸に抱いている聖母マリアは、どんなお顔をされていますか?
悲しみの底に沈んでいますか? 誰かを恨んでいますか? 誰かを憎んでいますか?
まったく違います。
むしろ、平和で、優しさに満ちた、慈愛に満ちた、安らぎに満ちた、柔和な表情をしています。そこにあるのは、息子への愛だけ、それだけが真実、それが聖母マリアに見えている世界ではないかと思います。
イエス様はどうですか?
母に抱かれている赤ちゃんのようですね。安心しきって、仕合せそうに安らいでいます。
「母さん、息子イエスとして、帰ってきたよ」
そんな安堵と安らぎの表情ですね。
愛する息子を、これ以上ない残酷な方法で殺されたのに、聖母マリアは、なぜこんなにも穏やかなのでしょうか。
また、何の罪も犯していないにもかかわらず残酷な刑で殺されたのに、イエス様は、なぜこんなにも穏やかなのでしょうか。
私たちが考え続けていくべき、大切なテーマのような気がします。
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