02_学長メッセージ

2024年2月 5日 (月)

【学長からのメッセージ2024.2】命

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「命」

 新しい命は 母の胎内で 育まれ

 新しい命は 母の乳で

 そして 多くの人たちの愛で

 生かされていきます。

 

 新しい命の光が灯るとき

 新しい愛の光も灯ります。

 だから

 命は愛

 命と愛は 一緒です。

 

 愛があるとき 命は命であり

 そして 私も私になれます。

 

 愛がないとき 命は命ではなく

 そして 私も私にはなれません。

 

 本当の私は どんな私?

 いつも 喜んでいる私・・・。

 

 そんな私を 幼い日々の まぶしい光の中に

 いつの間にか 置き去りにして

 ここまで 歩いてきたのかもしれません。


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2024年1月 9日 (火)

【学長からのメッセージ2024.1】自分を捨てるほど自分らしくなる

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「お前は、いつも自分のことばかり考えてるな」

これは、父から、私がずっと言われ続けてきた言葉です。

子どもの頃ならまだしも、いい大人になっても言われた記憶がありますから、かなり筋金入りの「自己中・自分ファースト人間」だったということでしょう。そんな私であったからこそ、次のような「人生の不思議な真理(?)」に気づくことができたのかもしれません。

それは、「自分を捨てるほど自分らしくなる」ということです。 

私が、「自己中・自分ファースト人間」を脱却し始めたのは、多分40歳を過ぎたころからではないか思います。そして、その脱却が進行する過程の中で、「自分を捨てるほど自分らしくなる」ということに気づいていったのでした。

「自分を捨てるほど・・・」の「自分」とは、「自己中・自分ファーストの自分」です。そして、「・・・自分らしくなる」の「自分」とは、「本来あるべき(と感じられる)自分(本当の自分)」です。(ということは、前者の自分は、「本当の自分」ではないということになります。)

「本当の自分」とは、何かといいますと、それは、「愛が共にある自分」と言えるかもしれません。たとえば、「自分の言葉や行いが、いつも愛からのものであるかを意識している自分」と言ってもよいかもしれません。

「自己中・自分ファーストの自分」を捨てると、不思議なことに、替わって、「自分」の中に「愛」が登場してきます。そして、そのとき、「自分は、本来あるべき自分になれた」と感じることができるのです。これが、「自分を捨てるほど自分らしくなる」ということの意味です。


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2023年11月30日 (木)

【学長からのメッセージ2023.12】そら が そこに あること

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「たいせつなこと」という絵本があります。(マーガレット・ワイズ・ブラウン作 レナード・ワイスガード絵 フレーベル館)1949(昭和24)年に出版され、読み継がれている絵本です。

その中に次の一節があります。

「そらに とって たいせつなのは いつも そこに あると いうこと」

空ほど、いつも、私たちと共に在るものはありません。

人が生まれたときから死ぬときまで、どこに居ても、共に在るのですから。

と言うか、空は、私が生まれる前から、そして私が死んだ後も、ずーっと在り続けるのですから。

もしかして、空は、私が、今、ここに、こうして私として、たしかに在るという、「自己存在」の意識を繋ぎ止めてくれるアンカーのようなものなのかな・・・とも思います。

私は、よく空を見上げます。空は、ただ上を見るだけで、いつも、そこに居てくれます。

思い煩いで心が煮詰まったとき、空を見上げると、なんだか、そんな思い煩いが、ちっぽけなこと、取るに足りないことに思えてきます。空の無限性、永遠性が、きっと、私にそのことを教えてくれるのでしょう。

もしかして、空は、神様に似ているのかな・・・とも思います。

 

私が見る幸せな“夢”は、窓から空が見えるベッドの上で死ぬことです。

レースのカーテンを優しく押して訪れる“風”に包まれて、「幸せそうな顔、してるね」という周りのささやき声を聞きながら・・・そんな夢です。


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2023年11月 1日 (水)

【学長からのメッセージ2023.11】はるかな故郷の風

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 8月号で、普通の歌が、神様と私(阿部個人)の歌として聞こえてくることがあり、それは、中島みゆきさんの「糸」と、さだまさしさんの「天までとどけ」だというお話をしました。

今回は、「天までとどけ」について、お話しします。 

「天までとどけ」のはじまりは、次の歌詞です。

「出逢いはいつでも 偶然の風の中」 

「出逢い」とは、誰との出逢いでしょうか?

私の場合、それは、イエス様との出逢いです。後に「偶然の風の中」という言葉が続いているからです。「風」というのは、キリスト教的には、「聖霊」のことなので、私にとっては、自然と、イエス様との出逢いに聞こえてくるのです。

少し跳んで、次の歌詞です。

「懐かしい風景に 再びめぐり逢えた そんな気がする 君の胸に はるかな故郷の風」

ここに「君の胸に」とありますが、私の場合は、「ぼくの胸に」になります。大変自分勝手で申し訳ないのですが、“君”ではなく、「“ぼく(私)”の胸に はるかな故郷の風」が吹いてくるのです。

「風」とは、聖霊(愛の霊)です。

「はるかな故郷」というのは、私にとっては、「子どもの頃の心」です。

 「懐かしい風景」も、同じく、「子どもの頃の心」です。

つまり、この歌詞は、私には、イエス様との出逢いによって、何の煩いも心配もなく生きていた子どもの頃の、あの清々しく軽々とした心に、再び還ることができた・・・という意味なのです。

子どもの頃は、野の草花が風に身を委ねて揺れるように、「自分」を何かに委ねて生きていたように思います。

でも、いつのまにか、自分で「自分」を背負って歩くようになってしまいました。

これは、とてもしんどいことです。

そんな私の「自分(私)」を、「偶然の風」の中で、イエス様が背負ってくださいました。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2023年10月 1日 (日)

【学長からのメッセージ2023.10 】誕生

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


  今回は、中島みゆきさんの作品の中で、私が一番好きな「誕生」を取り上げたいと思います。この歌から、私は、次のようなメッセージを読み取ります。(今回も、私の、自分勝手な深読みであることをお断りしておきます。)

 ①苦しいこと、辛いことも無駄ではなかったとわかる日が、きっと来る。その苦しみは、君が新しく生まれるためのものだから。だから「生きていても仕方ない」なんて言わないでほしい。

 ②人は、生まれた後でも新しく生まれることができる。赤ちゃんが泣いて生まれてきたように、君が、今、泣いているのも、きっと、君が生まれるためなんだ。

 ③君が生まれた時、そばに君の誕生を喜び、世話をしてくれ人がいたことを忘れないでほしい。君は、愛されて生まれて来たんだ。もし、君が「そんなことない」と言うのなら、私が言うよ。何回でも。「生まれてくれてWelcome」ってね。

 ④君は、きっと、もうとっくに愛を知っているはずだ。だから、今は、誰かにすがりたい気持ちでも、きっといつか、誰かを守りたい気持ちになれるさ。

 「誕生」というと、普通は、この世に生まれてきた時の「誕生」の話になりますが、中島みゆきさんの「誕生」では、生まれた後の「誕生」が語られています。

15 年ほど前、各地のハンセン病療養所に多数の中絶胎児の標本が保存されていたことがわかり、大きな問題になりました。旧優生保護法の下で人工中絶や断種手術が行われたのでした。その当時、NHKスペシャル(「にほんの家族の肖像」第1回、2007年5月27日放送)で、ハンセン病療養所の人たちの生活が取り上げられました。その中に上野正子さんご夫妻がいました。

正子さんが結婚するとき、同じハンセン病である夫に断種手術が施されました。事後にそのことを知らされた正子さんは、その時点で「子どものいる家庭」というかけがえのない自分の夢が打ち砕かれ、結婚生活60年の間、ずっと夫に対してわだかまりを持ち続けてきました。正子さんは、番組の中で、自分の結婚について、「かえすがえすも、残念なことだった」と語りました。

番組取材中、正子さんの夫が亡くなり、(取材が始まったとき、夫は、脳梗塞で寝たきりになっていました。)その半年後に、番組は、再び、正子さんを取材しました。そのときの、正子さんは、自分の結婚について、驚くべきことを語りました。

「残念ではあったけど、悔いのない結婚とは、こういうものだと思いますよ。」

そして、ナレーションが流れました。

「この後、上野さんは、夫へのわだかまりを語ることはありませんでした。」

夫を亡くしてからの半年間に、いったい、正子さんに何が起こったのでしょうか。

私たちは、大切な人を亡くした後、生前よりも、もっと深くその人を知る体験をします。(生前は、その人の、逐一のリアルな言動に注意が奪われ、逆にその人の本当の姿が見えにくいのかもしれません。)

正子さんも、夫を亡くしてから、もっと深く夫を知る体験をしたのではないかと思います。その結果、「いつも私を励まし続けてくれた、自分に優しかった人」として、夫の愛の深さを知ることができたのだろうと思います。

「悔いのない結婚とは、こういうものだと思いますよ。」と、晴れ晴れと語る正子さんは、きっと新しく生まれた正子さんなのだと思います。

神様は、人生の最後の最後まで、仕合わせな「誕生」のチャンスを、私たちに与えてくださるようです。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2023年9月 2日 (土)

【学長からのメッセージ2023.9】縦の糸と横の糸(続編)

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 前回は、中島みゆきさんの「糸」について、縦の糸は「神様」、横の糸は「私」という特殊なお話しをしましたが、普通は、2本の糸は、2人の人間、中でも恋人同士として理解されるのではないかと思います。

しかし、恋人同士で、はたして、中島みゆきさんが描く「誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる布」になれるのでしょうか... 必ずしも、簡単ではないと思います。なぜなら、恋人同士でも、ほぼ、自分本位だからです。自分本位の2本の糸が揃っても、「布」になるのは難しいのです。「布」というのは、2本の糸がお互いに身を挺して、きつく支えあうことによって生まれるものだからです。(そういう意味で「布」は、「自分を捨て、自分になる」という人生の真理をわかりやすく語っているようにも見えます。)

愛し合っている恋人同士も、ほぼ自分本位... と述べましたが、世間に流布している恋の歌をチェックしていただければ明らかだと思います。「そばにいてくれ」、「行かないでくれ」...と、“自己中心語”のオンパレードであることがわかります。

(とても分かりやすい例が、西野カナさんの「トリセツ」です。)

昔、私に洗礼を授けてくださった外国人の神父様が、こんなことをおっしゃいました。

「結婚講座に来る若いカップルに『あなたは、相手のために命を捨てることができますか』と訊くと、たいてい困った顔になります。」

それが普通なのです。恋人同士であっても。

(もっとも、老夫婦に同じ質問をすると、『もちろんです』という顔で頷くことが多いそうですが...。)

話を元に戻しまして、それでは、どんな恋人同士も、「布」にはなれないのか?...答えは、“いいえ”です。世の中には、「誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる布」となった2本の糸が存在します。

2日前に結婚したばかりだという若い夫婦が、多額のお金を寄付するためにマザー・テレサのところにやってきました。そのお金は、自分たちの結婚披露宴のためのお金でしたが、結婚する前から、それを全部寄付することに、2人で、決めていたのです。なぜなら、愛で結ばれた自分たちの結婚生活を、他の人に愛を捧げる行いで、始めたかったからでした。

マザー・テレサは、この若いカップルについて、次のように語っています。

「彼らのように、自分たちの愛を人と分かち合おうとする心は、神様からいただく恵なのです」(M・Kポール「コルカタの聖なるマザー・テレサ」87ページ サンパウロ)

中島みゆきさんの「糸」の最後は、次の歌詞で結ばれています。

「縦の糸はあなた、横の糸は私、逢うべき糸に出逢えることを、人は、仕合わせと呼びます」

「誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる布」に、自分と共に織りあげられる、そんな相手の糸に出逢えること、それこそが仕合わせなのだというのです。マザー・テレサの前に現れた若いカップルは、まさに、そのような「逢うべき糸」に巡り会えた、仕合わせな2人であるといえるでしょう。

ところで、お互いに支え合い、「布」となり得る愛をもった2本の糸も、「織り手」がいなければ、「布」に仕上がることはないでしょう。マザー・テレサは、「自分たちの愛を人と分かち合おうとする心は、神様からいただく恵なのです」と語りました。

中島みゆきさんの「糸」も、「逢うべき糸」に巡り合った2本の糸が、その愛を誰かと分かち合う(誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる「布」になる)というお話しでした。

ということは、この仕合わせな2本の糸が「誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる布」に織られることも、「神様からいただく恵」によるといえるのではないでしょうか。

そこで、結論です。「糸」が「布」になるためには、織り手が必要です。中島みゆきさんの「糸」は、「自分たちの愛を人と分かち合う布」に織り上げられました。その「自分たちの愛を人と分かち合おうとする愛」は、神様からいただく恵みです。ということは、中島みゆきさんの「糸」という歌の中に、実は、仕合わせな2本の糸の「織り手」として、「神様」が登場しているのです!!

 「ちょっ、ちょっ、ちょっと、待ってね。なんぼなんでも、深掘りしすぎなんでないかい」...ですかねえ...そうなっちゃうんですけど...私的には...。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2023年8月 1日 (火)

【学長からのメッセージ2023.8】縦の糸と横の糸

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 カトリックの洗礼を受けて40年近くたちますと、普通の歌が、神様と私のことをうたっている歌として聞こえてくることがあります。中島みゆきさんの「糸」と、さだまさしさんの「天までとどけ」です。今回は、「糸」について、お話しします。もし、興味がおありでしたら、お読みください。

 「糸」の、1番では、「縦の糸はあなた、横の糸は私、織りなす布は、いつか誰かを暖めうるかもしれない」、2番では、「縦の糸はあなた、横の糸は私、織りなす布は、いつか誰かの傷をかばうかもしれない」と歌われます。

 この歌は、二つの糸が織られて「人の仕合わせを願う愛」(布)へと変わる(昇華される)、そのような愛(人間愛)をうたっている歌だと思います。したがって、必ずしも、2つの糸が男女である必要は、ありません(恋愛の歌ではないので)。聴く人が、それぞれに「縦の糸のあなた」をイメージすれば良いのです。が、「縦の糸のあなた」に神様をイメージする人は、さすがに、希有だと思います。その希有な人の一人が、私になります。

「縦の糸のあなた」が、なぜ神様なのか。それは、「横の糸の私」が、神様なしには、何もできないからです。もしも、「横の糸の私」が、「誰かを暖めうる」また「誰かの傷をかばうかもしれない」布に変わり得るとすれば、それは、「縦の糸」が「神様」であるときに限られるのです。

 私は、自分のために祈るとき、大概、次のように祈っています。

「私の言葉や行いが、いつも愛からのものでありますように。そして、神様の愛が、私をとおして表されますように」 

「私の言葉や行いが、いつも愛からのものでありますように」という祈りは、多分、私が、長年「教育」という場にいるからだろうと思います。

続く「神様の愛が、私をとおして表されますように」という祈りは、「愛の源泉」は、神様にあって、私は、それを受ける「器」に過ぎないという信念があるからです。つまり、私の「愛」は、神様からいただくしかないのです。ですから、「横の糸の私」が「愛の布」に変わるためには、どうしても、「縦の糸」は、神様でなければならないのです。

 20年ほど前、中島みゆきさんは、キリスト教的な価値観をご存じなのではないかと思ったことがありました。

それは、「救われない魂は、傷ついた自分のことじゃなく、救われない魂は、傷つけ返そうとする自分だ」(「友情」の一節)という歌詞に出会ったときです。その後、中島みゆきさんが、カトリックの大学を出たことを知り、そうか、そうか、やっぱりな・・・と納得した憶えがあります・・・勝手にですが・・・。

中島みゆきさんご自身は、「縦の糸であるあなた」をどのような方としてイメージされているのでしょうか。歌詞からは、全く汲み取ることができません。

もしかして、私と同じでは??・・・「いやいやいや、なんぼなんでも、ムリなんでないかい」・・・ごもっともです・・・が・・・。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2023年7月 5日 (水)

【学長からのメッセージ2023.7】CDの世界とレコードの世界(Version2)

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


初めてCD音源を聴いたとき、音のキレの良さ、音のクリアさで、もはやレコードの時代は終わったと確信しました。

最近、レコードには、CDにはない「臨場感」や「音圧」を感じるとかで、レコードブームが再燃しているようです。あるミュージシャンが、レコード音源の良さを熱く語るのを聞いたこともありますが、「レコードの時代は終わった」という私の確信は、動きませんでした。つい先日までは・・・。

数年前、A氏が、不要になったスピーカーをプレゼントしてくれました。縦1メートルのスピーカーボックスに、4つのスピーカー(うち1つは、A氏が自作したもの)が内蔵されています。(幸い幅が20センチなのでホッとしました。)その出来事を知ったB氏が、自作のスピーカーをさらに追加し、ミニコンポの代わりに小型パワーアンプとCDプレーヤーを設置してくれました。こうして、思いがけず、私の長い長いミニコンポ時代は終わりを告げ、一見、オーディオ好きのような佇まいになってしまいました。

先日、我が家にやって来た長男が、C氏からいただいてそのまま使わずに仕舞い込まれていたポータブルレコードプレーヤーを見つけ出し、新オーディオ装置に接続して、レコードを掛けました。ピアノの音が鳴りだした瞬間、驚きました。そこに「人」が居て、弾いている感じなのです。まさに、CDにはない「臨場感」と言えるかもしれません。私は、CDとレコードの音の違いを確認してみたくなりました。

レコード版とCD版の両方揃っている「カルメン・マキ&OZ」で聴き比べることにしました。このレコードは、私が20代後半に購入したもので、その後CD版も購入して、今に至るまで、折に触れ聴き続けている、何とも不思議なアルバムです。その中の「Image Song」で、聴き比べることにしました。

まずCD版。切れの良い、クリアでシャープな音で、期待通りです。次にレコード版。イントロからヴォーカルに入った途端、仰天してしまいました。CDとは別次元の音が現れたのです。まさに、「臨場感」と「音圧」の違いといってよいと思います。Cメロの「今、鳥が翔びたつ日暮れた野原に」のところでは、思いがけず、左上腕部に鳥肌が立ちました。

この出来事によって、「レコードの時代は終わった」という私の確信は、崩れました。レコードの時代は、終わってなんかなかったのです。堂々と我が道を歩み続けていたのでした。

CDは、人間の可聴域にある周波数だけを採用し、しかもその音をサンプリングし、必要な音だけを記録しています。一方、レコードは、人間に聞こえまいと関係なく、収集可能な周波数を雑味もろとも(さらにサンプリングによって取りこぼすこともなく)記録しています。

CDとレコードのどちらが上か、優れているか、ではなく、両者は、別々の世界を創りだしているのだと思います。

仕事をテキパキ、効率的にこなしているときはCDモード、湖畔に佇んで湖面を渡る風を感じ、岸辺を打つ水音を聴いているときは、レコードモード・・・そんな気がします。


【コメント】
今回のブログの前の、ボツにした原稿を読んでいた方から「ボツになった原稿の方が人間味があってよい」というご意見をいただき、旧ヴァージョンも併せて載せさせていただくことにいたしました。終わりの部分の内容が違っています。


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2023年7月 4日 (火)

【学長からのメッセージ2023.7】CDの世界とレコードの世界

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 初めてCD音源を聴いたとき、音のキレの良さ、細部の音のクリアさで、もはやレコードの時代は終わったなと確信しました。最近、レコードには、CDにはない「臨場感」や「音圧」を感じるとかで、レコードブームが再燃しているようですが、まったく、理解できませんでした。つい先日までは・・・。

数年前、A氏が、不要になったスピーカーをプレゼントしてくれました。縦1メートルのスピーカーボックスに、4つのスピーカー(うち1つは、A氏が自作したもの)が内蔵されています。(幸い幅が20センチなのでホッとしました。)

その出来事を知ったB氏が、自作のスピーカーをさらに追加し、ミニコンポの代わりに小型パワーアンプとCDプレーヤーを設置してくれました。こうして、思いがけず、私の長いミニコンポ時代は終焉の時を迎え、見た目、なにやらオーディオ好きのような佇まいになってしまいました。

先日、我が家にやって来た長男が、C氏からいただいてそのまま使わずに仕舞い込まれていたポータブルレコードプレーヤーを見つけ出し、新オーディオ装置に接続して、レコードを掛けました。ピアノの音が鳴りだした瞬間、驚きました。そこに「人」が居て、弾いている感じなのです。まさに、CDにはない「臨場感」と言えるかもしれません。私は、CDとレコードの違いを確認したくなりました。

そこで、レコード版とCD版の両方揃っている「カルメン・マキ&OZ」で聴き比べることにしました。このレコードは、私が20代後半に購入し、その後CD版も購入して、(飽きっぽい私が)折に触れて聴き続けている、何とも不思議なアルバムです。その中の、「Image Song」で、聴き比べることにしました。

まずCD版。キレの良い、細部までクリアな音で、期待通りです。次にレコード版。イントロからヴォーカルに入った瞬間、仰天してしまいました。別次元の音が現れたのです。まさに、「臨場感」と「音圧」の違いといってよいと思います。「今、鳥が翔びたつ日暮れた野原に」のところでは、左上腕部に鳥肌が立ちました。

この出来事によって、「レコードの時代は終わったな」という私の確信は、完全に崩れてしまいました。

レコードがCDに勝っているということではなく、両者は別の世界を現しているのだと思います。今回、幸いにも、レコードの世界の素晴らしさを発見することができたということです。

この発見は、新オーディオ装置のおかげなのでしょうか。それを確かめるためには、お蔵入りしたミニコンポでこのレコード盤を聴いてみる必要がありますが、さすがにそこまでの情熱は、私には、ありませんでした。


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2023年6月 1日 (木)

【学長からのメッセージ2023.6】“6月”に、ちなんで

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


“6月”といえば、あじさいです。

あじさいの花は、そぼ降る雨の中、パステル色を楽しませてくれます。そして、あじさいの葉も、また、濃くも薄くもない丁度良い緑で、その上を、虹色の光を薄く残しながらカタツムリが静々と歩んでいきます・・・という情景を思い浮かべることはできるのですが・・・、実は、この年になるまで、あじさいの葉っぱの上のカタツムリというものを見たことがないのです。

3歳の頃私が引っ越した家の裏手が竹藪でした。雨上がりに、カタツムリが笹の葉の上を静々と歩いている姿をいつも見ていました。

私が、幼稚園の年長組のある日、先生が子どもたちに質問しました。

「カタツムリは、何の葉っぱの上にいますか?わかる人・・」

カタツムリを普段見ている子どもたちですから、すぐさま一斉に手を挙げました。

「はい、あべくん」と、先生は、私を指名しました。

私は、自信満々に、元気よく答えました。

「笹の葉っぱの上です!」

「違います!」

「わかる人・・・」、先生は、もう一度、子どもたちに問いかけました。

今度は、誰も、手を挙げません。“先生にとっての正答”を答えなければいけないモードに切り替わってしまったからです。

しかたなく、先生は自分で答えました。

「あじさいの葉っぱです」

先生は、折り紙であじさいを折り、緑の葉っぱを描いて、その上に折り紙で作ったカタツムリを貼るという造形活動を計画していたのでした(今考えると)。そして、その活動の導入として「カタツムリは、何の葉っぱの上にいますか?わかる人・・」という問いかけを考えていたでしょう。先生は、どうしても、「あじさいの葉っぱです」という答えがほしかったのだと思います(今なら、事情は、わかります)。

しかし、悲しいことに、幼児教育には、自分の「指導計画」よりも、もっと大事なものがあることをご存じなかったようです。

先生から頭ごなしに全否定されて固まってしまった“けんちゃん”の姿が見えます。「大丈夫、心配しないで、けんちゃんは、間違ってないんだからね」・・・私の心は“けんちゃん”をぎゅっと抱きしめるのです。


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