02_学長メッセージ

2024年10月 1日 (火)

【学長からのメッセージ2024.10】「包まれているということ」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「包まれているということ」

 どこで読んだのかは、すっかり忘れてしまいましたが、人間にとって、“包まれている”という感覚を持つことは、とても大事なことであるという意味の文を読んだことがあります。

 私の父は、晩年、認知症になり、自身の妻(すなわち私の母)に対して「どちらからおいでですか?」と言ったり、「私は、結婚したことがないんですよね」と言ったりしていました。息子である私については、当然息子という認識はなく(なにしろ結婚したことがないのですから)、“どこかの親切な人”という認識でした。

 そんな晩年の父が、音声自動再生のように、繰り返し、繰り返し語っていたのが、自身の母(私からすると、あのやまゆりを飾ってくれた祖母)のことでした。内容は、たいてい、どぶろくを密造していた話でした。そして、私に言うのです。「あんたも、一度、うちのお袋のどぶろくを飲んでみるといいよ」

 父の中では、お袋が、秋田の実家に、リアルに生きているのです。いくら、私が「もう死んで、いないんだよ」と理を尽くして説明しても、馬耳東風でした。父の「お袋に会いたい」という思いを、私は、その都度、はぐらかすしかありませんでした。

「認知症になると、一番よかった時代に還る」と誰かに聞いたことがあります。

 父は、農家の三男坊で、高等小学校を出してもらうと、家を出て就職しました。そして、長い長い人生を歩んできました。そして、最後に歩んでいこうとした場所は、母の愛に包まれた場所でした。

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星美学園短期大学

2024年9月 4日 (水)

【学長からのメッセージ2024.9】「やまゆりの思い出」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「やまゆりの思い出」

 私の記憶の中にある最初の花の思い出は、母が作った小さな花壇です。

3歳の頃、両親が住み込みで働いていた日暮里から谷中の小さな家に引っ越しました。(リヤカーに、私と布団とアイロンを乗せて、父が前になり、母が後になって、寛永寺坂をゆっくりと登っていく夕暮れの情景は、なぜか切ない思い出として残っています。)

その家は、六畳の和室と三畳の土間だけの、路地奥の小さな家でしたが、裏には日当たりのよい小さな空き地がありました。そこに、母が小さな花壇を造ったのです。そこに咲いた花たちを見たとき、うれしさで一杯になりました。それが、私の人生の、最初の花の思い出です。 

私の人生の中で、最強の花の思い出は、祖母が摘んだやまゆりです。理由は、そのやまゆりが、祖母の、健ちゃん(私)への愛情そのものだったからです。

父の実家が秋田の山間にある農家で、私は、小学生のころから大学生の頃まで、夏休みの何日かを父の実家で過ごしました。

私が訪れるたび、祖母は、一本の大きなやまゆりをガラスの花瓶に飾ってくれました。そのやまゆりは、日当たりのよい山道の端に、毎年、大輪の花を咲かせていました。それを、祖母が、私のために摘んできてくれるのです。

が、実は、その立派なやまゆりが、私は、大の苦手でした。その香りが、私には、キツすぎたのです。

「飾ってほしくないな」

これが正直な思いでしたが、そんなこと祖母には言えませんでした。

「健ちゃんは、お花が大好きだ。あの立派なやまゆりを飾ってあげたら、健ちゃんは、きっとよろこんでくれるに違いない」

もう、そう信じきって、私のために飾ってくれるのですから。

あのやまゆりは、今、どうしているのでしょうか。今も、健ちゃんのために自分を摘みに来る“ばっぱ”を、夏の日差しの中で、待っているのでしょうか。

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2024年7月29日 (月)

学長メッセージ・特別編「学長講話:後編」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、7月22日(月)に行われた「学長講話」の内容を前・中・後編として、まとめましたので、ぜひご一読ください。

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お待たせしました!後編です。

前編の内容はこちらから

中編 の内容はこちらから


 では、私たちはどのようにしたら、心の中に「愛」を持てるようになるのでしょうか?

 キリスト教では、「愛」は、人間が創り出すものではなく、神さまからいただくものと考えます。では、どうしたら、私たちの心の中に、神様の愛をいただくことができるのでしょうか?ということになります。

結論からいうと、それは「自分を捨てることによって」です。

わかりやすく説明するために、私たちの心を、1つの「器」と考えてみます。今、この「器」が、自分のことだけで一杯になっているとき、神様の愛は、この「器」の中に入ることができません。自分のことだけで目一杯なので、神様の愛を受け入れる余地がないのです。しかし、逆に、「器」から自分のことを捨てていけば、空いたところに、神様の愛が、自然に入ってくることになります。神様の愛は、いつも、みなさんの器(つまり心)の中に入りたがっているからです。

神様の愛を器に受けるためには、ただ器の中から「自分のこと」を捨てていけばよいのです。ではどうしたら、器の中から、自分のことを捨てることができるのでしょうか?

その答えは、皆さんご存じの、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中にあります。

 「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシ、ワカリ、ソシテワスレズ」の一節です。

ものごとを考えたり、判断したりするときに、「自分第一」「自分優先」ではなく、自分のことは勘定に入れずに、あるいは、自分のことは後回しにして、あるいは、自分のことはいったん脇において、考えるということです。

そうすることによって、器の中から自分のことを捨てていくことができます。

といいますと、反論があるかもしれません。

・・・いやいやいや、ちょっと待ってくださいね。

自分のことを勘定に入れなかったり、自分のことを後回しにしたりしたら、自分が損するだけじゃないですか?!

・・・いやいやいや、この世界だいたい逆になります。

自分のことを後回しにする人の方が、むしろ得をすることが多いのです。最後には得をしている。これが人生の不思議な真理です。

・・・いやいやいや、ちょっと待って。

自分のことを心の中から捨てていったら、自分が自分でなくなってしまうではないですか?・・・これも、ちがうのです。自分を捨てれば捨てるほど、実は本当の自分になっていくのです。自分と思える自分となっていけるのです。「自分第一」「自分優先」で生きている自分は、実は本当の自分ではないからです。これも人生の不思議な真理です。

とは言っても、みなさんは若いですから、自分を勘定に入れないで物事を考えるということは、なかなかハードルが高いかもしれません。私も若い頃は、自分のことばかり考えていました。

そこで、今日は、特別に、自分を捨てることを意識しなくても、心という器の中に、神様の愛をいただくことができるお祈りを、みなさんに教えることにします。

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お祈りする気のない人も、ぜひ、メモしてください。

では、言います。

 「神さま、あなたの愛が、私を通して、周りの人たちに表されますように、そして、私の言葉と行いが、いつも愛からのものでありますように」

男子の場合は、「私」ではなく、「俺(僕)」でもいいです。

「神さま、あなたの愛が、俺(僕)を通して、周りの人たちに表されますように、そして、俺(僕)の言葉と行いが、いつも愛からのものでありますように」

カッコいいですよね!

さて、これから夏休みに入ります。このお祈りは、みなさんの夏休みを素晴らしいものにしてくれると思います。

ぜひ、よい夏休みをお過ごしください。


星美学園短期大学 学長メッセージ

2024年7月26日 (金)

学長メッセージ・特別編「学長講話:中編」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、7月22日(月)に行われた「学長講話」の内容を前・中・後編として、まとめましたので、ぜひご一読ください。

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お待たせしました!中編です。

前編の内容はこちらから

後編の内容はこちらから


本日配布しました「しおり 2.聖書朗読(コロサイ人への手紙 3章12-17節)コロサイの信徒への手紙  本文2行目です。

「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。」とあります。

「身につけなさい」と言う言葉に注意してください。「~しなさい」とは言っていませんね。

 その3行下、同じく「愛を身につけなさい」と言っています。 

 その2行下、「キリストの平和があなた方の心を支配するように」とあります。「キリストの平和が、あなたの心を支配するように」と言っています。行いではなく、心の問題なのです。 

 その3行下、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」とあります。「あなたの内に豊かに宿るようにしなさい」と言ってます。宿ることが問題なのです。

 つまり、聖書の言葉は、「行い」のことではなく、行いを創り出す源にある、その人の「心」のあり方について語っています。

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では、その「心のあり方」とは何か?それは、キリスト教では、「愛」ということになります。

2年生、専攻科生のみなさんの中には、「どんな立派な行いをしても、そこに「愛」がなければ虚しい」という聖書の言葉が頭に浮かんだ人がいるかもしれませんし、また、専攻科生の中には、「何をしたかではなく、そこにどれだけ愛を込めたかが大事です」というマザー・テレサの言葉が浮かんだ人がいるかもしれません。

先ほど、電車で、喜んでおじいさんに席を譲る人と、優先席なので仕方なく、いやいや席を譲る人の話をしましたが、席を譲るという行いは同じでも、心に愛があるか否かが、決定的に重要だということです。

さて、ここから話の核心になります。

が、この続きは後編で

 ・・・ to be continued


星美学園短期大学 学長メッセージ

2024年7月23日 (火)

学長メッセージ・特別編「学長講話:前編」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、7月22日(月)に行われた「学長講話」の内容を前・中・後編として、まとめましたので、ぜひご一読ください。

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 みなさん、こんにちは。 こうして、学生の皆さんに集まっていただき、共に集いのひとときを持てることに、感謝したいと思います。

 

 私は、だいたい月2回くらいのペースで、保育園を訪問しています。保育について、保育士さんと話し合ったり、時にはお母さんと話し合うこともあります。 

 私が保育園に行くと、子どもたちが私に声をかけてくれます。

 ここで、問題です。突然ですが・・・。

 子どもたちは、私に、どのように声をかけてくれるでしょうか?

 以下の4択から、1つ選んでください。

 ① ねえ、おにいちゃん ② ねえ、おじちゃん ③ ねえ、おじいちゃん ④ ねえ、じいさん

 さあ、どれでしょう。  

 正解は、③ ねえ、おじいちゃんconfidentです。

 たまに、「おじちゃん」と呼んでくれる子もいますし、先週行った保育園では、「ねえ、誰のお父さんなの?」という子もいましたけど、だいたい、普通に「おじいちゃん」と認識されるようになりました。 

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 ここから本題に入ります。

 このように、普通に、「おじいさん」と認識してもらえるようになったおかげで、これまで経験できなかったことが、経験できるようになりました。

 それは、いったい何でしょうか? どうですか? 

 ヒント:電車 traintrainです。

 

 そうですね。電車で席を譲ってもらえるようになったことです。これはうれしいですね。

 楽させてもらえるということもありますが、人の優しい心、親切な心、思いやりの心に触れる機会が与えられるようになったという、ちょっとした喜びです。

 でも中には、席を譲られて「年寄り扱いするのか」と不機嫌になるおじいさんも、聞くところによると、いるようですね。せっかくの、優しい心を踏みにじってしまうようで、少し悲しいですね。

 

 先日、こんな出来事がありました。

 大宮駅から乗り込んできた、おじいさんが、優先席に座っていた若い男性の前に立って、吊革にぶら下がって覆いかぶさるように前傾姿勢になり、「おい、そこどけや、優先席やないかい」みたいなオーラをとばし始めたのです。

 若い男性は、そのすごいオーラshineに気づいたようで、ふてくされたように、席を立ちました。そして、そのおじいさんは、その空いた席に、「当然じゃろ」みたいな顔で、座ったのでした。

 若者は、席を譲るという好ましい行為をしたのですが、そこに「やさしさ」はなく、おじいさんにも「感謝の心」がありませんでした。ただ、無言の喧嘩みたいな、虚しいやりとりがあっただけでした。

 さみしいですね。

 

 先ほど、聖書が朗読されました。

 その中で、特に注目してほしいことがあるので、ちょっとお手数ですけど、お手元のしおりの「聖書朗読」の箇所を開いていただけるとありがたいです。

今回は、ここまでです。この続きは「学長講話:中編」で! 

・・・ to be continued


星美学園短期大学 学長メッセージ

2024年7月 3日 (水)

【学長からのメッセージ2024.7】「かみさまは どこに いるのかなあ?」(のつづき)」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「かみさまは どこに いるのかなあ?」(のつづき)

 前回、しょうちゃんのおじいちゃんは、しょうちゃんに、「かみさまは、しょうちゃんの心の中に、いっしょにいてくれる」と話しました。

おじいちゃんなりに、そのことを、もう少し考えてみました。

ひとつは、「かみさまは、心の中にいっしょにいてくれる」といっても、一人ひとりの心の中に、別個に居られるわけではないということです。(当たり前ですね。)

かみさまは、一人ひとりの心の中に居られながら、同時に一人ひとりを超えて居られます。逆に言えば、一人ひとりを超えて居られるかみさまが、私たち一人ひとりの心の中にも、居てくださるということです。

そういう意味で、心の中にかみさまが居られる人たちは、みな、かみさまによって“1つの人たち”です。

もう1つ考えたことは、「かみさまは、私たちの心の中にいっしょにいてくれる」というときの「私たちの心」です。

「私たちの心」というと、まず「心の世界」と言えるような「心」が思い浮かびます。その「心の世界」のような「心」の中に、かみさまが居られ、私たちは、そこに居られるかみさまに向かって、いつでも、どこでも、どんなことでも、祈り、願い、語りかけることができます。

もう1つ、私たちのことばや行いを産み出す(源となる)『心』があります。「心根がやさしい」とか「心が卑しい」とか「心がまっすぐだ」などというときの『心』、つまり、その人の日頃の行いを産み出す元となっている『心』です。この『心』は、私たちがどう生きるかに関わるとても大切な『心』です。この『心』の中に、かみさまがいてくださることは、なんと心強いことでしょうか。

私たちは、それに応えて、次のように祈りたいと思います。

「私の言葉や行いを通して、あなたの愛が表されますように」

「私の言葉と行いが、いつも、愛からのものでありますように」

追記:8月は、暑さのため、「学長メッセージ」をお休みします。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2024年6月 4日 (火)

【学長からのメッセージ2024.6】「かみさまは どこに いるのかなあ?」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


かみさまは どこに いるのかなあ?」 

かみさまは、どこにいるのかなあ?

神社でお参りしてた人がいたけど、おやしろの中に、かみさまがいるのかなあ?

曲がり角のお地蔵様に手を合わせていた人がいたけど、お地蔵様の中に、かみさまがいるのかなあ?

ぼくが幼稚園のとき、先生が「かみさまは、いつも、いっしょにいてくれる」って教えてくれたけど、かみさまは、いつも、ぼくの隣にいるのかなあ?

 

ぼく、おじいちゃんにきいてみたんだ。

「幼稚園の時、先生が、『かみさまは、いつも、いっしょにいてくれる』って教えてくれたけど、かみさまって、いつも、ぼくの隣にいるの?」

 

おじいちゃんは、困った顔をして、言ったんだ。

「難しい質問だなあ・・・。だって、おじいちゃん、かみさまのこと、よくわからないんだ」だって。いつも教会に行ってるくせにね。

 

でも、教えてくれたんだ。

「幼稚園の先生が、『かみさまは、いつも、いっしょにいてくれる』と教えてくれたのは、かみさまは、いつも、しょうちゃん(ぼくの名前だよ)の隣にいてくれるということじゃなくて、いつも、しょうちゃんの心の中に、いっしょに、いてくれるという意味じゃないかと思うよ。しょうちゃんが悲しいときや、うれしいときや、怒っているときや、考えているときや、笑っているときや、いつでも、どんなときでも、かみさまは、しょうちゃんの心の中に、いっしょにいてくれるからね」

 

それで、ぼく、分かったんだ。

神社にお参りしている人も、お地蔵様に手を合わせている人も、きっと、その人の心の中のかみさまに、話しかけているんだよね。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2024年5月 7日 (火)

【学長からのメッセージ2024.5】「宝 物」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「宝 物」 

ぼくが ママと おじいちゃんのおうちにいったとき

ママとお散歩に行ったら

土手の下に ぺんぺん草がいっぱい生えてたんだ

だから僕 一本持って帰りたくなっちゃったの

でもね 途中で折れちゃったんだよ 

だって 茎がとっても細いんだもん

おじいちゃんに「折れちゃったの」って見せたら

セロテープで折れたところを巻いて 治してくれたんだ

そして お水の入ったガラス瓶の中に挿してくれて 

ぼくに 言ったんだよ

「見て このぺんぺん草 とっても元気で 嬉しそうだよ」 ってね

 

わたしが パパと おじいちゃんのおうちにいったとき

パパと近くの公園に行ったら

端っこに 鉛筆よりも もっと太いぐらいの枝が落ちてたんだ

地面に少し埋まって 泥だらけだったけど

なんだか とっても 気に入っちゃったの

だから おじいちゃんちの玄関のところに 置いておいたんだ

だって 帰ったら ママに見せてあげるんだもん ぜったいに

おじいちゃんのおうちに さよならするとき パパが言ったの

「そんな泥だらけの枝を持ってたら 帰りの電車の中で おやつ食べられないよ」 って

でも 私は 言ったの

「いいよ」 って

だって この枝 ママに見せる方が いいもん

おじいちゃんも わたしに 言ったんだよ

「ママ とっても よろこぶぞ」 ってね


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2024年4月 4日 (木)

【学長からのメッセージ2024.4】「朽ちる命と朽ちない命」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「朽ちる命と朽ちない命」 

 以前住んでいた家の庭に、朝顔を植えたことがあります。

 つるを伸ばし、花を咲かせ、そして、枯れていきました。

 翌年、同じ場所から芽が出て、同じように、花を咲かせました。

 

 ここで問題です。

 初めの年の朝顔と、次の年の朝顔は、同じ朝顔でしょうか?違う朝顔でしょうか?

 初めの年の朝顔は、朽ちて、もうありません。

 次の年の朝顔は、咲いています。

 この2つの朝顔を、それぞれ「個」として捉えるなら、「違う」朝顔としてみるのが自然でしょう。

 そして、その「個」の命は、「朽ちる」ように定められているのです。

 ところで、いつの間にか、勝手に芽を出して、花を咲かせた、次の年の朝顔は、いったい何者でしょうか?

 その出自を問うならば、言うまでもなく、前年の朝顔の種です。

 その種は、前年の朝顔自身であり、かつ、次の年の朝顔自身でもあります。そういう意味で、初めの年の朝顔と次の年の朝顔は、「同じ」朝顔と言えるでしょう。

 このように、「個」を超えた命は、「朽ちることのない」命です。

 

 「朽ちる」命が終わっても、「朽ちない」命は、在り続けます。

 それは、希望であり、喜びであると言えるでしょう。

 「野辺の花 はしゃぎつつ摘む童らに  微笑み顔で 過ぎ逝くわが身」

 義父の辞世の句です。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2024年3月 6日 (水)

【学長からのメッセージ2024.3】「スマイルは、目で伝わる」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「スマイルは、目で伝わる」 

Q区の保育園の巡回相談(月2回程度)を頼まれて、30年余りになります。

当初は、ギリギリ30代だったので、園児たちは、私のことを「おにいさん」と呼んでくれました。もっとも、中には、「おじさん」と呼ぶ不届き者もおりましたが・・・。

50代に入ると「おじさん」が、闊歩するようになりました。

が、60代に入っても、依然として「おじさん」(「おじいちゃん」ではなく)が頑張っていたので、「自分、見た目、案外若めかも?」などと調子に乗っておりました。

が、それも束の間、今や、木枯らしの吹く70歳半ば、さすがに「おじさん」と呼んでくれる園児は、誰一人、いなくなりました。諸行無常。

100%「おじいちゃん」と呼ばれる自分に、一日も早く、慣れ親しまなければ・・・と想いを馳せる、今日この頃であります。

・・・というのは、余談で・・・。

 

コロナ禍で、みなさん、マスクをするようになりました。

当然、保育園でも、保育士全員マスクでした(多くの園では、今も)。

保育士の表情が見えないので、子どもたちに何か問題が生じないか・・・ということも、ささやかれました。

実は、私も、マスクを付けた顔で、子どもとのラポール(親愛関係)が築けるか不安でした。と言うのは、ラポール形成のスーパー必殺技は、「スマイル」だからです。

「スマイル」は、「微笑み」とは違います。「微笑み」は、内向きな、慎ましやかな笑顔ですが、「スマイル」は、外向きの、「ごきげんよう」という、元気いっぱいの笑顔です。つまり、「スマイル」は、相手へのメッセージなのです。

どんなメッセージか?

「ぼくは、君を大切に思っているよ。だから仲良くなろうね」というメッセージです。

「スマイル」によって、このメッセージが、子どもの心に、瞬間的に伝わります。その結果、会った瞬間、友達になれるのです。

 

マスクで顔が隠れていても「スマイル」が伝わるだろうか?・・・無理だろうな・・・というのが、私の当初の思いでした。でも、それは全くの杞憂でした。マスクをしたままでも、全く問題なしでした。「スマイル」は、全く問題なく、子どもたちに伝わりました。

「スマイル」の発信地は、「口角」ではなく(マスクで隠れているのですから)、「目」なのです。

たとえマスクをしていようが、「スマイル」全開の時の「目」の力が、「ぼくは、君を大切に思っているよ。だから仲良くなろうね」というメッセージを、ちゃんと子どもに伝えるのです。

コロナのマスクが、私に、そのことを教えてくれました。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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