02_学長メッセージ

2025年6月 2日 (月)

【学長からのメッセージ2025.6】「プッツリ時代」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「プッツリ時代 

今の私たちの時代を、未来の人たちは、何と呼ぶのでしょうか?

 「プッツリ時代」・・・?

人間を超えた存在との繋がりが、プッツリ切れてしまった時代という意味です。

***

私が知っている少し前の日本には、「お天道様が見ている」という言葉が生きていましたし、近くのお地蔵様に花を添えて手を合わせる人の姿は珍しくありませんでした。また、多くの家庭には神棚があり、地域には氏神様がいました。このように、形はいろいろですが、所謂「信心」(人間を超えたものとの繋りのうちに生きる人間の姿)が、ごく当たり前に、私たちの生活の中にありました。

***

その頃には、父の家にも母の家にも、玄関に鍵がありませんでした。旅館にも部屋の鍵がなかったと思います(部屋の中に小さな金庫がありましたが)。また、親は、安心して、子どもたちを外で遊ばせていました。

まだ、「人間とは、やたらとあくどいことをするものじゃない」という、人間に対する基本的な信頼感のようなものがあったような気がします。

***

その基本的な人間への信頼感は、どこから来ていたのでしょうか?

それは、多く人たちが、まだ、自分を超えたものと繋がりの中で生きていたからではないかと思います(たとえば、毎朝お地蔵様に手を合わせている人が、極悪非道な行いをすることは、まずないだろうと考えるように)。

***

ところが、今や、私たちは、人間への基本的不信感を前提に暮らさざるを得なくなりました。

この人間不信時代が到来した原因は何でしょうか?

その大きな原因は(すべてとは言いませんが)、多くの人が人間を超えた存在との繋がりをプッツリしてしまったためではないかと思います。プッツリしてしまったために、人間は、自分を基準に生きるようになり、その結果、お互いに警戒し合って生きる、人間不信社会が生まれてきたのではないかと思います。

***

どうしたらよいのでしょうか?

1つ考えられることは、自分以外の人や生き物を大切にしている絵本・童話に、子どもたちがたくさん出会うことだろうと思います。

「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。(ヨハネ第一の手紙4章7~8節)」

絵本・童話を通して子どもたちの中に愛の火が点ったら、その時、自分を超えたものとの繋がりが生まれるのではないでしょうか?

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星美学園短期大学

2025年5月26日 (月)

【学長からのメッセージ2025.5】「聖母祭の学長のお話」より

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「聖母祭の学長のお話」より

今日は、みなさんと一緒に聖母マリアをお祝いする日ですので、聖母マリアとはどのような方なのか、二つの出来事を通して、考えてみたいと思います。

1つ目は、受胎告知と言われるできごとです。

ある日、聖母マリアの所に、ガブリエルという天使がやってきて、「あなたは、妊娠して男の子を産みます」と告げます。聖母マリアは、もう、びっくりです。まったく心当たりがないのですから。

ですので、聖母マリアは答えます。

「どうしてそのようなことがあり得ましょうか?私は、まだ、男の人を知りませんのに」

天使は、聖母マリアに答えます。

「神様におできにならないことは、ありません」

この一言で、聖母マリアの疑念は、ぱーっと吹き飛んでしまいます。

そして、言います。

「私は主のはしためです。どうぞ神様のお言葉通りになりますように」

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「はしため」という言葉に、「私は、決して、自分の人生の支配人、マネージャーではありません。ただ神様の手の中で、神様によって生かされている者にすぎません」という思いが込められているように思います。

逆に、「私は、自分の人生の支配人です。私は、自分の人生の隅々まで、すべて自分が仕切って、生きている者です」と思い込んでいる人であれば、次のように言うと思います。

「私のことは、私が一番わかっているんですよ、私が妊娠するなんて、ばかばかしいこと言わないでくださいよ」

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ところで、聖母マリアには、ヨセフという婚約者がいました。もし、婚約者以外の男性と関係を持ったということになれば、当時のユダヤ社会では、死刑にあたいするくらいの重い罪でした。

普通であれば、そんな危険を冒したくありませんから、「私にも事情がありますので、お断りします」ということになると思います。

しかし、聖母マリアにとって大事なことは、自分のことではなく、正しい選択をすること、行うべきことを行うことでした。

***

もう1つの出来事は、愛する息子であるイエスの死です。

鞭打たれて皮膚がボロボロになり、棘のある茨の冠を頭にはめられ、愛する息子が、十字架に付けられて苦しみのうちに、自分の目の前で死んでいきます。

そのときの、聖母マリアの思いは、どのようなものだったでしょうか?

聖書には、聖母マリアが、泣き叫んだり、取り乱したり、恨みの言葉で呪ったりした・・・という記述は、全くありません。むしろ、聖母マリアは、目の前の現実を、静かな気持ちで受け止めているという印象を受けます。

それは、聖母マリアが強い意志を持って悲しみを抑える気丈夫な方だったからということではなく、聖母マリアの眼差しが、目の前の現実を超えて、もっと遠くを、つまり神の愛に包まれた世界・景色を見ていたからではないかと思います。

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Photo

スクリーンに写されたのは、ミケランジェロのピエタ像(我が家にあるレプリカ)の聖母マリアとイエス様の顔のアップです。

十字架上で苦しみの中で死んだ息子イエスを胸に抱いている聖母マリアは、どんなお顔をされていますか?

悲しみの底に沈んでいますか? 誰かを恨んでいますか? 誰かを憎んでいますか?

まったく違います。

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むしろ、平和で、優しさに満ちた、慈愛に満ちた、安らぎに満ちた、柔和な表情をしています。そこにあるのは、息子への愛だけ、それだけが真実、それが聖母マリアに見えている世界ではないかと思います。

イエス様はどうですか?

母に抱かれている赤ちゃんのようですね。安心しきって、仕合せそうに安らいでいます。

「母さん、息子イエスとして、帰ってきたよ」

そんな安堵と安らぎの表情ですね。

 

愛する息子を、これ以上ない残酷な方法で殺されたのに、聖母マリアは、なぜこんなにも穏やかなのでしょうか。

また、何の罪も犯していないにもかかわらず残酷な刑で殺されたのに、イエス様は、なぜこんなにも穏やかなのでしょうか。

私たちが考え続けていくべき、大切なテーマのような気がします。

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2025年5月 2日 (金)

【学長からのメッセージ2025.5】「5月 聖母マリアの月」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「5月 聖母マリアの月 

妊娠の告知を受諾した 聖母マリア

十字架の前で悲しみに耐えた 聖母マリア

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すべてを神に委ねる 澄みきった心

一片の悪も入りこめない 清らかな心

試練を黙して受け入れる 謙遜な心

***

私たちを 平和と安らぎへと導く 希望の星

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聖母マリアの月 みどりの風の かおる5月

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2025年4月 2日 (水)

【学長からのメッセージ2025.4】「“体”があるから“私”がいるの?」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「“体”があるから“私”がいるの? 

前回は、私のお臍の右側にやけどの痕があるというお話をしました。今回は、その余談です。

私のやけどについて、母が来客に話したことを前回お話ししましたが、傍でその話を聴いていた私は、特段驚くことはありませんでした。というのは、私は、すでに、その出来事を知っていたからなのです。具体的に言うと、私は、その乳児(私)に起こった出来事を斜め上から見ていたのです。つまり、“自分”が、斜め上から“自分”を見ていたということです。乳児期の記憶は霧の中なのに、この出来事だけは、不思議と私の記憶に残されているのです。

私が見ていたそのときの出来事を、後の経験を重ね合わせて再現すると次のとおりです。

場所は、父が住み込みで働いていた、荒川区日暮里にあった「親方の家」の台所です。乳児が激しく泣いています。母と親方の女将さんは、なぜ乳児が激しく泣いているのわからずに困り果てた様子でしたが、突然大慌てで赤ちゃんの産着を解いて、お腹に巻いてあるものを取り外しました。

私の記憶は、そこまでです。乳児が激しく泣いている場面からおなかに巻いているものを取り除くまでの、おそらく数秒のできごとではなかったかと思います。その数秒間、自分の体から離れた自分がたしかにいたのです。そして、その自分が見た出来事が、消えることなく記憶に残っているのです。

*** 

私の父は、子ども頃、川で溺れたそうですが、そのとき綺麗なお花畑の中に居たそうです。「だから、死ぬのは、全然恐くない」とも言っていました。その時の父も、体から抜け出していたのだと思います。

***

同じく、父の体験談です。

秋田県の湯沢市に住んでいた私の母方の祖父が亡くなった夜に、東京にいた私の父の所に来たそうです。父が「お父さん」と呼び掛ると、すっと消えてしまいました。恐怖感は、全くなかったそうです。

*** 

その祖父が、いつの頃からか、私を危険から守ってくれていると感じるようになりました。ヒヤッとした時など、「おじいちゃん、ありがとう」と心の中で言ってしまうのです。

*** 

多くの人は、自分の体があるから自分がある、体がなくなれば自分もなくなると考えていると思います。しかし、本当にそうでしょうか?

体がなくなっても、いや、体がなくなったがゆえに、その人は、いつも、楽園に、そしてあなたの傍にいてくれるのかもしれません。

***

 

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2025年3月 4日 (火)

【学長からのメッセージ2025.3】「亡き人と語らう(その2)」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「亡き人と語らう(その2)」 

「その人が生きていたときよりもその人が亡くなったあと、その人との深い対話が始まる。」の続きです。

昨年5月に、母が、99歳で亡くなりました。以下は、母の思い出を辿る中で、初めて「わかった」ことです。

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私のお臍の右側には、やけどの痕があります。だいぶ目立たなくなりましたが、それでもケロイドとして、今も痕跡を残しています。おもしろいことに、乳児期にできたそのやけどの痕は、体の成長と共に大きくなっていきました。

***

私には、そのやけどの痕を恥ずかしく思っていた時期がありました。特に、小学四年生頃から高校生の頃だったと思います。水泳の授業の時など、海水パンツをたぐりあげて、やけどの痕を少しでも隠そうとしていました。

***

私が小学5年生くらいのときだったと思います。

母が、お客さん(誰だかは忘れました)に、私のやけどついて話したのです。私は、その話を、横で聴いていました。

***

私が乳児の時、私のお腹の具合が悪かったので、母が、温めたこんにゃくを布で包み、私のお腹に巻いてくれました。しばらくすると、私が激しく泣き出しました。母は、その理由がわからず、ただオロオロするばかりでした。が、はっと気づいて、慌ててこんにゃくを外したのですが、時すでに遅し、私のお腹に、くっきりとやけどの跡が残ってしまったのでした。

私がいる所で、母が、私のやけどについて語ったのは、その時が最初で最後でした。

***

母が亡くなったあとに、遅まきながら、母の思いが、私に伝わってきました。

母は、私がやけどの痕を恥ずかしく思っていることに気づいていたのです。それは、親である以上、きっとそうであったろうという、私の中に生まれた確信です。そして、私がやけどの痕を恥ずかしがっている様子を見るたびに、母は、心を痛めていたにちがいないのです。

***

私のお腹のやけどの痕は、私だけのものではありませんでした。ずーっと、母のやけどの痕でもあったのです。

私が、やけどの痕を恥ずかしがることによって、どれだけ母を悲しませたか・・・今になって、やっと気づくことができたのでした。

 

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2025年2月 4日 (火)

【学長からのメッセージ2025.2】「亡き人と語らう(その1)」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「亡き人と語らう(その1)」

 「その人が生きていたときよりもその人が亡くなったあと、その人との深い対話が始まるのです。」これは、ずっと昔、ある神父様が語られた言葉です。

 

これもずっと前のことですが、NHKのドキュメンタリー番組(2007年5月27日放送NHKスペシャル「にっぽんの家族の肖像」)の中に、Uさんという、ハンセン病療養所で暮らす老夫人が登場しました。ご主人は、脳梗塞で倒れ、寝たきりとなって同じ施設の病棟で看護を受けています。Uさんは、毎日欠かさず病棟に行って、元気に声をかけます。

 

Uさんのご主人は、結婚当日、強制的に断種手術を受けさせられました。Uさんは、自分に何の相談もなくそのような手術を受けた夫に対して、ずっとわだかまりを持ち続けていました。(Uさんは、子どもがほしかったのです。)

 

Uさんは、番組の中で、自分の結婚を「間違っていた」と語りました。

番組取材の最中に、60年間共に支え合ってきたUさんのご主人が亡くなりました。

 

その半年後、取材に訪れた記者に、Uさんは、亡き夫のことを、「今思うと、私を励ます役割をしてくれた、本当に優しい人でした」と語り始めました。(亡き夫について3時間語り続けたそうです。)語り終わったとき、Uさんは、晴れやかな笑顔を記者に向けて言いました。

 

「悔いの無い結婚というのは、こういう結婚をいうんじゃないでしょうか。」

 

半年間の深い対話の中で、ご主人の「見えなかった心」が、Uさんの心に、はっきりと映し出されたのだと思います。

 

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2025年1月21日 (火)

学長メッセージ・特別編「学長講話(後期)」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、1月20日(月)に行われた「学長講話」の内容をまとめましたので、ぜひご一読ください。

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 みなさんは、やなせ たかしさん作詞の「手のひらを太陽に」という歌をご存じだと思います。

1番には、ミミズ、オケラ、アメンボが登場し、2番には、トンボ、カエル、ミツバチが登場し、3番には、スズメ、イナゴ、カゲロウが登場します。

そして、どの生き物も、「みんな、みんな、生きているんだ。友達なんだ。」と歌われます。

ミミズもアメンボも生き物ですから、「みんな、みんな、生きているんだ」というのは当たり前ですが、この歌詞のすごいところ、というか驚くべきところは、「友達なんだ」というところです。

みなさんは、どうでしょうか?

ミミズやスズメを「友達なんだ」と思えるでしょうか?

結構難しいですよね。

でも、もし、そんな世界に私たちが生きられたら、きっと毎日が喜びに溢れるのではないでしょうか。この歌は、子どもからお年寄りまで、ずっと歌い継がれていってほしいですね。

実は、やなせ たかしさんの「手のひらを太陽に」の世界は、キリスト教の世界とも重なるのです。キリスト教の視点から見ると、トンボもスズメも人間も神様によって創られ、共に神様の愛によって生かされているからです。

***

話は跳びますが、私は、中学生の時、地面を動き回っているアリンコたちを見て、「アリンコは、何のために生きてるんだろう?君たちの人生に、何か意味があるの?」と考えたことがあります。今でも覚えているので、当時の私にとっては、かなり重要な問題だったのだろうと思います。

そして、今は、というと...、アリンコたちは、自分の人生の意味や目的なんか考えていない。ただただ、生きていることを嬉しがって生きているんだと思っています。言うまでもなく、アリンコだけでなく、アメンボもトンボもスズメも、ただただ、生きていることを嬉しがって、喜んで、生きているんだと思います。

しかし、自由に動いたり、泳いだり、飛んだりできない野の花は、どうでしょうか?生きていることを嬉しがっているのでしょうか?

***

みなさんは、「お花が笑った」という歌をご存じだと思います。

でも、お花は、笑うのでしょうか?

実は、笑います。高校のとき、漢文の授業でそう習いました。

「花が咲く」の「咲く」という漢字は、もともとは、「笑う」という意味なのだそうです。だから、咲くという漢字は、口偏なのだそうです。

つまり、今、私たちが、「お花が咲いた」と言っているのは、古い漢字の意味からすると、「お花が笑った」という意味になるのです。

誰にも知られないままに、ひっそりと咲いている儚い一輪の花も、与えられたその命を喜んで生きていると、私は、思います。

***

では、人間はどうでしょうか?

日々、生きていることに喜びや嬉しさを感じているでしょうか?

ミミズやスズメが生きていること自体を喜んで生きているならば、同じ生きている人間も、そうでなければおかしいですよね。

実際、1歳、2歳の赤ちゃんを見てください。生きていること自体が嬉しくてしかたないとしか思えません。人間も、アリンコやアメンボやスズメのように、日々、喜んで生きられるように、神様は、本当は、お創りくださっているのです。

本当は...というのは、人間の場合、大人になると様子が変わってしまうからです。人間は、大人になると、日々、喜んで生きることができなくなってしまいます。いったい、なぜなのでしょうか?

アリンコやアメンボやスズメや野の花や人間の赤ちゃんと、人間の大人は、いったい何が違うのでしょうか?

***

アリンコやアメンボやスズメや野の花や人間の赤ちゃんは、明日のことを全然心配していません。

みんな、自分の存在を超えた何かに、...アリンコやアメンボは、自然から与えられるものに、人間の赤ちゃんは、世話をしてくれる大人に、自分を委ねて生きています。

つまり、自分で自分の心配なんかしないで、自分を包んでくれている、自分を超えた何ものかに自分を任せて、委ねて、生きているのです。

そのように、自分を超えた何かに自分を委ねて生きるとき、本来神様からいただいている、生きる嬉しさ、喜びが、自分の中に溢れてきます。

***

人間の大人は、いつも明日のことを心配しています。その心配を、自分で何とかしなければと、いつも自分のことで心がいっぱいです。重い荷物のように、自分の心配を、自分の背中だけ背負って、ひたすら、果てのない、急な坂道を登っていくかのようです。

***

先ほど、イエス様の言葉が読まれました。

「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたには、なおさらのことである。」

つまり、明日は燃やされてしまうかもしれない野原の花でさえも、神様は、人間が造るどんな装いよりも美しく飾ってくださる。だから、ましてや、人間であるあなた方のことを、神様が良いように計らってくださらないはずはないではないかということです。

ですから、私たち人間の大人も、丁度赤ちゃんが大人を信頼して自分を委ねるように、神様に、自分の日々の心配を、たとえ幾分かでも、委ねてみるのがよいと思います。きっと、その分、私たちが元々神様からいただいている生きる喜びが、心の中に息を吹き返してくると思います。

***

みなさんの中には、今年、成人式を迎えた人がいると思います。

大人の人生には、言うまでもなく、いろいろな困難が待ち構えています。

たとえ困難に陥ろうと、みなさんの重荷を神様に委ねながら、神様からいただいた生きる喜びを失わずに、朗らかに、快活に、人生の坂道を登っていっていただきたいと思います。


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星美(せいび)学園短期大学 
SEIBI Gakuen College 
幼児保育学科  
専攻科幼児保育専攻

2025年1月10日 (金)

【学長からのメッセージ2025.1】「地上の知恵と上からの知恵」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「地上の知恵と上からの知恵」

 エデンの園のアダムとエバは、神様から「善悪の木からは、決して食べてはならない。」と言いつけられますが、エバは、蛇にそそのかされて、その木の実を口にしてしまいます。

さらに、アダムもエバにそそのかされて、その実を食べてしまいます。

そのときから、人間は、自分の知恵によって(神様の知恵から離れて)生きていくことになります。神様と人間の間に亀裂を生じさせるという、蛇(サタン)の強烈な目論見は、見事成功したと言えるでしょう。

ところで、人間が木の実を食べて得た知恵とはどの程度のものでしょうか。

木の実を食べると「二人の目は開け」(創世記3章7節)、まず、自分たちが裸であることを知ります。そして、恥ずかしく思います。つまり、「見られている自分」を知る知恵を得たといえるでしょう。

次に、木の実を食べたことを神さまから詰問されたエバは、蛇にだまされたと、罪を蛇になすりつけます。そして、アダムは、エバのせいだとエバに罪をなすりつけます。つまり、罪を他人のせいにして自分を守る知恵を得たといえるでしょう。

さらに、アダムとエバの子、カインは、弟アベルを嫉妬心から殺してしまいます。つまり、自分と他人とを比較する知恵を得たといえるでしょう。そして、自分と他人を比較する知恵によって、嫉妬心・妬みが生み出され、自分が気に入らない相手を殺すという知恵を得たといえるでしょう。

このように、人間が神さまの言いつけに逆らって得た知恵というのは、「利己的な自己保身の知恵」であり、「自分を見せない(隠す)知恵」であり、「自分と他人を比較する知恵」であり、「気にくわない者を抹殺する知恵」であるといえるでしょう。

聖書は、「地上の知恵」と「上から出た知恵」について次のように語っています。

「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブの手紙3章14~18節)

私たちは、幸いにも、イエス・キリストを通して、「上からの知恵」に触れることができます。

「イエスが行った奇跡の第一は、その言葉である」と、誰かが書いていましたが、私も、二十台に、初めてイエスの言葉に触れた時、「どう考えても、これは人間の言葉ではない」と直感したのを覚えています。今思うと、この直感(上からの知恵の言葉)が、私をキリスト信徒へと方向付けたのかもしれません・・・そんな気がしています。

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2024年12月10日 (火)

【学長からのメッセージ2024.12】「クリスマスとマリア様」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「クリスマスとマリア様」

12月は、クリスマスです。

クリスマスというと、私は、マリア様のことを考えてしまいます。

   

ある日、マリア様の所にガブリエルという天使がやってきます。そして、マリア様に「あなたは、妊娠して男の子を産みます」と告げるのです。マリア様の心に浮かんだことは、「それはありえない」ということでした。

マリア様は答えます。

「どうしてそのようなことがありえましょうか。私は、男の人を知らないのです。」

しかし、天使は、言います。

「神様におできにならないことはありません」

マリア様は、それで納得します。

マリア様は、答えます。

「神様のお言葉通りになりますように」

そして、実際に妊娠します。

 

ところが、事情は、そう簡単ではないのです。

マリア様には、ヨセフという婚約者がいました。当時のユダヤ社会では、正式に結婚するまでは男女別々に暮らしていましたので、マリア様が妊娠したのは一体どういうことだということになります。もし、マリア様が婚約者以外の男性と関係を持ったということになれば、当時は、死刑にあたいすることでした。そのことは、当然、マリア様も承知されていたと思います。

そのような事情ですから、普通の人でしたら、「私にも都合がありますから、勝手にそんなこと決められても困ります」と、天使の言葉を拒絶するだろうと思います。それが、私たちにとっては、「正しい」判断であると思われるわけです。ところが、マリア様は、自分の事情など全く顧みずに、「お言葉のとおりなりますように」と答えるのです。マリア様は、神さまの思い・願いに従うことだけが正しいのだということに、一点の疑いも持たないのです。

私たち人間は、「あれが正しい」、「いやいやこれが正しい」などと議論しますが、人間が考える「正しいこと」とは、いったい何でしょうか。私たちは、日々、自分の「正しさ」をぶつけ合いながら、傷つけ合っているのではないでしょうか。

人間の分際で「本当に正しい」判断を下すことなど、残念ながら不可能なのです。ところが、私たち人間には、この真実を、素直に、謙虚に認めることができません。

私たちが、真に正しい判断ができるとすれば、それは「神さまの思い・願い」に自分の思いを重ね合わせたときだけです。マリア様は、それを、何のためらいもなく行いました。そういう意味で、マリア様は、私にとって憧れなのです。

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2024年11月 1日 (金)

【学長からのメッセージ2024.11】「「僕たち」ということ」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「「僕たち」ということ」

 「僕が伝えたいのは、君たちにとっての“僕たち”の範囲を広げてほしいということや。家族、学校の友人や会社の同僚、同じ国で生きる人々、そして世界全体。空間的な話だけやなく時間的にも広げられる。過去の人や未来の人を含めて“僕たち”になりえる。」

これは、田内 学 著「きみのお金は誰のため」(東洋経済新報社)の一節です(216頁)。

何かにつけてキリスト教的視点から捉えてしまうことが習い性になってしまった私は、この一節を読んだときに、イエスが「天の国は次のようにたとえられる・・・」と語られた「ぶどう園の話」を思い浮かべてしまいました(マタイによる福音書20章1-15節)。

ぶどう園の主人が、収穫の人手を得るために朝早く広場に行き、1日1デナリオンの賃金で働き手を雇います。しかし、まだ人手が足りないので、9時、12時、15時と、働き手を探しに広場に出かけます。さらに、17時ごろ広場に行ってみると、まだ誰からも雇って貰えない人たちがいたので、その人たちもぶどう園で雇います。仕事が終わり、主人は、まず、その一番最後に来た人たちに1デナリオンの賃金を払います。それを見た朝早くから働いている人たちは、自分たちはもっと多く貰えるはずだと期待を膨らませます。ところが、主人が払ったのは、同じ1デナリオンでした。

当然、文句が出ます。

「1日働いた俺たちと1時間しか働いていないあいつらと同じ1デナリオンとは、どうにも合点がいきませんぜ!」

しかし、主人は、次のように答えます。

「あなたたちとは、1日1デナリオンの約束をしたはずです。私は、ちゃんとそれを守りました。ですから、それでいいじゃないですか。私は、最後の人たちにも、あなたたちのようにしてあげたいのです。私が自分のものを自分のしたいようにしてはいけませんか」

正論です。ごもっともです・・・が、早朝から夕方までびっしり働いた人たちの立ち位置に立てば、気持ち的には、なかなか納得しにくいと思います。

・・・が、もし、1日仕事にありつけないまま広場に立ち尽くしていた人が「僕たち」の一人だったらどうでしょう。夕方になってやっと仕事にありつけた「僕たち」の一人が、なんと、朝から働いている僕たちと同じお金を貰えたら、僕たちもうれしくないですか。「おいおい、よかったじゃん!」と肩を叩きたくなりませんか。

「僕たち」(「私たち」「おれたち」「うちら」)の範囲をどんどん広げていったら、きっと、今とは違う世界が見えてくると思います。

そんな世界を、私たちは、いつになったら生きられるのでしょうか。

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