02_学長メッセージ

2026年5月 1日 (金)

【学長からのメッセージ2026.5】人は、思い悩まない(その2)

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


人は、思い悩まない(その2)

 前回、「思い悩むな。ただ、神の国を求めよ。」というイエス・キリストのメッセージを紹介しました。

「神の国」とは、地球上にある国家のようなものではなく、時空を超えた、神の力・支配・恩寵が及ぶ領域のことです。 

また、「思い悩む」ことは、不完全で限界のある人間が、自分の力に頼って生きようとするところから生まれてくるものです。

したがって、「思い悩むな」というメッセージは、結局のところ、「思い悩み」の源である「自分」(自分の力に頼って生きること)を捨てなさいということに繋がると思います。

それでは、なぜ、イエス・キリストは、「自分」を捨てなさいと言うのでしょうか?私たちが思い悩まないで済むためでしょうか?

そうではなく、神さまと繋がるためです。

つまり、その人が自分を捨てない限り(その人が自分で自分の人生を請け負い、自分のことだけ考えて生きている限り)、神さまは、その人に手出しができない(繋がることができない)のです。

図式的に見るならば次のようになると思います。

思い悩む=自分で自分の人生を仕切ろうとする=神様が手出しできない=神様と繋がらない

イエス・キリストの「思い悩むな」というメッセージは、結局は、「いつも父なる神と繋がっていなさい」という、私たちへの切なる思いを表しているように思います。

 

余談ですが、私が20年前、星美学園短期大学の学長就任を要請されたときの妻の言葉が「自分を捨てて、やるしかないよ」でした。この「自分を捨てて」という言葉の中に、「神さまに任せて」、「神さまと共に」という意味が込められていたと思います。

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星美学園短期大学

 

2026年4月 1日 (水)

【学長からのメッセージ2026.4】人は、思い悩まない(その1)

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


人は、思い悩まない(その1) 

私が初めて聖書の福音書を読んだとき、「思い悩むな」というイエスの言葉にとても気持ちが楽になったのを覚えています。

(マタイによる福音書6章25-34節、ルカによる福音書12章22-32節)

しかし、現実を見ると、イエスの「思い悩むな」という言葉とは裏腹に、常に思い悩みの内に生きているのが私たちの姿のように思えます。

しかし、それでも、イエスが「思い悩むな」と語る以上、「思い悩まない」姿こそが、私たちの、あるべき、本来の姿のはずであろうと私は思います。

このことについては、3回シリーズくらいで考えてみたいと思いますが、今回は、まず、人は、なぜ思い悩むのかについて、仏教の教えを借りながら考えてみたいと思います。

 

仏教では、苦しみの根源となるものを3つ上げています。貪欲(とんよく) 、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)で、「三毒」と言います。

(1)貪欲(とんよく)

欲望・煩悩です。欲望が苦しみの源であるということです。しばらく前のことですが、ある若い起業家が「人生の目標は、欲望を満たすことだ」と語っていました。ご本人は、それこそが幸せに生きることだと信じていらっしゃるようでしたが、私には、欲望の泥沼に喘いでいる姿しか浮かんできませんでした。

(2)瞋恚(しんに)

怒り・憎しみです。この世界を眺めれば、これが、私たちの思い悩みの原因となっていることは、了解できると思います。怒り・憎しみは、相手を苦しめるのではなく、自分を苦しめるものです。

(3)愚痴(ぐち)

愚かさ・浅はかさ・知恵の欠落です。これが、思い悩みをもたらす最大の原因だと思います。人間は、全知全能ではありませんから、先が見通せなかったり、正しい分別ができなかったり、判断を誤ったり、間違った選択をしてしまうことがあります。つまり、人間が考えること、人間の知恵には、限界があるということです。この限界が、結果的に、さまざまな思い悩みを生み出すことになります。

このように、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)という「心の弱さ」と愚痴(ぐち)という「能力の限界」を抱えた人間が、ひとり、自分の力にたよりながら、自分なりによかれと思う人生を取り仕切ろうとしているわけですから、当然、そこには、さまざまな思い悩みが生まれてくることになります。

今は亡き、ある超大物俳優が、ずばり「生きるということは、地獄だと思います」と語っていました。言い方は、極端ですが、人間の弱さ・限界から生まれる、ある意味での真実かもしれません。

しかし、神さまは、私たちを、わざわざ思い悩ませるために「ご自分にかたどって人を創造された」(創世記第1章27節)のでしょうか?また、人に「命の息を吹き入れられた」(創世記第2章7節)のでしょうか?

そんなはずはありません。

私たち人間は、本来的に、思い悩みとは無縁に、快活さ、朗らかさ、喜びの内に生きるように創造されたはずです。

それは、アシジの聖フランシスコをはじめ、聖人たちの生き方を見れば明らかだと思います。

イエスは、思い悩まずに、「ただ、神の国を求めなさい」と語りました。次回は、この点について考えてみたいと思います。

つづく

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星美学園短期大学

2026年2月12日 (木)

【学長からのメッセージ2026.2】困難ゆえの神への信頼

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


困難ゆえの神への信頼

―ドン・ボスコのエピソードからー

1月28日に、サレジオ会の浦田神父様をお招きし、恒例の職員研修が行われました。

テーマは、「ドン・ボスコの困難」でした。

 

イタリアの産業革命の最中、トリノの街には地方から大勢の若者が流入してきました。その生活は劣悪で、また失業する者も多く、悪い仲間に誘われて非行や犯罪に走り、刑務所に収監される若者が大勢いました。

ドン・ボスコは、頻繁に刑務所を訪れ、若者の友となるよう若者たちと関わりました。そして、若者たちをピクニックに連れ出して、1人の脱走者もなく刑務所に戻るという、信じられないようなことを成し遂げたのでした。

ドン・ボスコは、休日に若者を自分の下に集め、よきキリスト者・よき社会人へと成長するよう、よい環境の中で楽しい休日を過ごさせようとしました。しかし、大勢の元気過ぎる若者たちがドン・ボスコの下に集まってくるということで、周囲の理解が得られなくなり、若者と過ごせる場所をどこにも見つけられなくなってしまいました。

そのときのドン・ボスコの心境を、浦田神父様の資料から引用させていただきます。

*********

「おそらく生まれて初めて、やるせない気持ちでいっぱいになり涙をこぼしました。そのまま歩き続けながら、目を天に上げて、こうつぶやいたのです。『神さま、子どもたちを集めるようお望みの場所をなぜ示してくださらないのですか。場所を示してくださるか、わたしのなすべきことを教えてくださるか、どちらかをお願いします』」

*********

ドン・ボスコが、神さまに向かって助けを求めるや否や、パンクラツィオ・ソアーベという一人の男がドン・ボスコのところにやって来て、ジュゼッペ・ピナルディさんの所有地が空いているという情報をもたらしてくれたのでした。

 

このドン・ボスコのエピソードは、(ドン・ボスコが特別な人だからということではなく)神さまは、必ず、私たちの心の叫びに応えてくださるという希望を呼び覚ましてくれるように思われます。

自分が直面する問題について自分がまったくの無力であることを知らされ、もはや神さまに叫び求めるしかないところまで追い詰められたとき、そして、その問題が神さまの御心に適うとき、神さまは、必ず私たちの思いに応えてくださる・・・という、そんな希望です。

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星美学園短期大学

2026年1月 6日 (火)

【学長からのメッセージ2026.1】気にしない・あきらめる・当てにしない(4)

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


気にしない・あきらめる・当てにしない(4)

-“当てにしない” 編-

  「当てにする」ことの中には、当てにする側の勝手な思惑、期待が含まれています。それにもかかわらず、当てが外れたときには、イライラに苛まれます。そして、そのイライラを、自分の思惑、期待を裏切った人にぶつけます。(場合によっては、関係のない「人」や「モノ」に八つ当たりします。)「当てにする」ことが、結果的に、自分にとっても、人にとってもイライラを招くとするならば、初めから「当てにしない」方が賢明ということにもなるでしょう。しかし、人が、全く人を当てにしないで生きていくことは難しいと思いますし、現実的ではないと思います。

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 そもそも、問題は、「当てにする」こと自体にあるのではなく、当てが外れた時に、イライラに苛まれ、そのイライラを誰かにぶつけてしまうところにあります。したがって、当てが外れてもイライラしなければ、「当てにする」こと自体は、けっして悪いことではないと思います。(表題の「当てにしない」の意味も、「当てにしてイライラしない」ということでしょう。)

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 私たちは、当てが外れるとなぜイライラするのでしょうか。それは、当てが外れることはあってはならないことだと勝手に決め込んでいるからだと思います。もし、当てが外れることは、当然あり得ることだと初めからわきまえていれば、当てが外れても、そんなにイライラせずにすむのではないでしょうか。そして、「幸いにも」当てが外れなかったときには、「ありがとう」のことばが浮かんでくるのではないでしょうか。

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星美学園短期大学

2025年12月 1日 (月)

【学長からのメッセージ2025.12】気にしない・あきらめる・当てにしない(3)

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


気にしない・あきらめる・当てにしない(3)

番外編“キレやすい子の保育”―

 前回、「がまんする」ことと「あきらめる」ことについて触れました。前者は、「思い(欲求)」が通らず、かといって、そのイライラを人やモノにぶつけることはせず、じっと自分の中でそのイライラを処理している状態であり、後者は、イライラの元である「思い」から離れてしまう状態です。「がまんする」状態は、遅かれ早かれ自分の中で処理されて、「あきらめる」に変わっていきますので、「あきらめる」力の元が「がまんする」力であると言えるかもしれません。

 保育現場で保育者が難しさを感じている子どもは、「がまんする」ことができない子ども、すなわち、自分の思いが通らないとそのイライラを人やモノにぶつけて解消しようとする子どもではないかと思います。

 たとえば、噛みつく、叩く、引っ掻く、罵る、レゴのケースをぶちまける、椅子を振り上げ床に叩きつける、自分がプールに入れないのでプールに砂を投げ入れるなどです。そして、保育者が難しさを感じている部分は、それらの行動を制止すると、さらに激しい行動にエスカレートしていく点だと思います。

 このような姿のまま大人になっていくとすれば、本人自身が辛い人生を歩むことになりますから、イライラを人やモノにぶつけない自制心、すなわち「がまんする」力を育てていく必要があります。

 そのポイントは、行動の意識化・客観化、対象化で、その方法は、行動の言語化です。(本人が言葉にできないときは、保育者が「・・・だったのかな」と言語化を助けます。)行動の一部でも、言語化(客観視)できれば、それで良しとします。(当然ながら、子どもの行動を追究する場面ではありません。)

 この対応は、子どもが落ち着くのを待って行います。(イライラの原因となったモノ、人が視界にない場所に移動することも沈静化に有効です。)

 そして、何より重要なことは、「叱る」、「躾ける」という意識を持たないことです。叱られるからしないではなく、自律的に「がまんする」力を育てる必要があります。

 子どもを変えるのは、罰や脅しや叱責や小言ではなく、子どもへの愛と信頼であるというドン・ボスコの教育理念を心に留めて関わっていただければ、子どもは、変わっていくと思います。

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2025年11月 6日 (木)

【学長からのメッセージ2025.11】気にしない・あきらめる・当てにしない(2)~“あきらめる”編~

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


気にしない・あきらめる・当てにしない(2)

―“あきらめる”編―

 一般に、人は、自分の思いどおりにならないとキレたり、イライラしたりします。そして、その不快状態をなんとか解消しようとします。

 その方法には、大きく3つあります。

 1つは、自分の思いを妨げる障害物を叩き壊して、あるいは乗り越えて、所期の思いを達成することです。2つ目は、不愉快な気持を、人やモノに当たって軽減することです。そして、3つ目は、自分の思いをなかったことにすること、つまり「あきらめる」ことです。

 1つ目の方法には、2つあります。1つは、「ちゃぶ台返し」のように自分の権威や恫喝によって自分の思いを通すやり方、もう1つは、知恵を絞って自分の思いを通すやり方です。自分の思いを通すにあたり、前者は不適切な方法であり、後者は適切な方法であると言えるでしょう。

 人生には、どんなに知恵を絞っても、どうにもならないことが多々あります。その場合は、「あきらめる」ことによって不快状態をなくすことが適切な方法となります。

 「あきらめる」ためには「あきらめる力」が必要です。この力が育っていなければ、あきらめたくてもあきらめられず、苦しむことになります。したがって、あきらめる力を育てることはとても大切なことで、この点については、次回触れたいと思います。

 あきらめることと、がまんすることとは違います。がまんすることは耐えることですが、あきらめることは手離すことです。

 あきらめるとは、自分が負っている荷物(こだわり、執着)を捨てて身軽になることでもあります。

 人生は、あきらめの連続なのかもしれません。そうであれば、それもまた善いことなのだろうと思います。

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2025年10月 3日 (金)

【学長からのメッセージ2025.10】気にしない・あきらめる・当てにしない(1)

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


―“気にしない”編―

 “気にしない・あきらめる・当てにしない”という言葉は、随分昔にある先生(お名前は、忘れてしまいました。)の講演で聞いた言葉ですが、私の中にずっと生き続け、時に人にも紹介してきました。私たちが、人間関係を生きる上での、1つの知恵であるような気がします。 

今回は、その中の「気にしない」を取り上げてみたいと思います。

私たちは、他人の言動にイライラしたり、不快感を持ったり、心がザワついたりします。それが、自分に向けられた言動であれば、なおさら強いものとなるでしょう。そして、「なんで私は、あなたのせいで、不愉快にならなければならないのですか!?」と、他人のせいでイライラさせられること自体にイライラすることにもなります。

そのようなイライラを回避するための1つの知恵が、「気にしない」です。

「気になること」を「気にしないこと」にするわけですから、簡単ではありません。「自分」が変わることも必要になります。

まず。「気にしない」という心構えをしっかり持つ必要があります。初めは「気にしない」と自分に言い聞かせつつ「気にしている」自分がいますが、修行の中で、「気にしない」という自分への一言だけで「気にしない」スイッチが入る(自分の意志で「気にしない」気持ちに切り替えられる)ようになります。ここまでいけば、修行の完成ですが、さらに達人の境地に至りますと、「気にしないスイッチ」が常にオンの状態(「気にしない」との意識もなく「気にしない」状態)に至ります(なかなか遠い道ですが)。 

私たちは、自分をイラつかせ、ザワつかせ、不愉快にしてくれる人に出会ってこそ、「気にしない」の心構えを通して、人間として成長できるのかもしれません。

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2025年9月 2日 (火)

【学長からのメッセージ2025.9】先生に叱られちゃったこと

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


【先生に叱られちゃったこと】

小学校1年生の時だったと思います。

給食に出た焼きそばを、隣の子といっしょに、スプーンでペタペタ叩いて平べったくしていました。

「増えた増えた」などと言いながら、一緒にケラケラ笑いながら、心が一つに繋がる喜びを感じて、焼きそばをペタペタ、ペタペタしていました。

「やめなさい!食べ物で遊ばない!」

大きな声がして、遊びは、突然、さみしく終了となりました。

 *** *** ***

小学校2年生の時だったと思います。

運悪く、私は、教室の最前列でした。

先生が私の国語の教科書に目を留め、ほとんどのページの下の角が少し(多分2~3ミリ)折れているのを見つけました。

「何ですかこれは。教科書を乱暴に扱うからこうなるんですよ。」

と叱られてしまいました。

先生は、私の隣の、クラス一番の優等生の教科書に目を移しました。

そして、「うっ」と絶句しました。なんと、優等生の教科書も、私と同じ状態だったのです。

先生はつぶやきました。

「あれ、教科書の角が折れるのは、たくさん勉強するせいなのかなあ」

私は、内心うれしくなりました。

「先生、ぼくのことも、よく勉強してる子だと思ってくれたよね」

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2025年8月 1日 (金)

【学長からのメッセージ2025.8】夏休み特別編:健康診断物語

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 【夏休み特別編:健康診断物語】

1.身長測定(1)

 A:「かかとを下げてください。」

 B:「ああ。これね。補正してます。最近、縮んだんで・・・。」

 

2.身長測定(2)

 A:「頭の後と背中とお尻の3点をきちんと尺柱に付けてくださいね。」

 B:「無理なんですよ。猫背なので。巻き尺で採寸してもらえませんか。」

  *** *** ***

3.聴覚検査(1)

 A:「聞こえてないときは、ボタンを押さないでくださいね。」

 B:「ヂ~~・・・って聞こえてますよ。」

 A: 「耳鳴りは、無視してくださいね。」

 

4.聴覚検査(2)

 A:「ツ、ツ、ツ・・・という音が聞こえたらボタンを押してくださいね。」

 B:「だんだん大きくなってきました。ツ、ツ、ツ・・・が。」

 A:「ではなくて、聞こえたらすぐにボタンを押してくださいね。」 

 B:「ウ~ン・・・無理かな。いつの間にか聞こえてくるんですよ。合図してもらえませんか。音出すとき。」

 

5.聴覚検査(3)

 B:「もう少しボリュームを上げてもらってもいいですか?聞きづらいんで・・・。」

 *** *** ***

6.視力検査(1)

 A:「黒いマルが見えまよね。」

 B:「見えます。」

 A:「どこが欠けていますか?」

 B:「真ん中です。」

 

7.視力検査(2)

 A:「これは、どこが欠けていますか?」

 B:「エイッ! 下っ!!」

 A:「これは?」

 B:「エイッ! 右っ!!」

 A:「普通の声で大丈夫ですよ。」

 B:「見えないときは、気合で当てるんです。」

 A:「ウ~ン・・・たしかに、よく当たりますね。」

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2025年7月17日 (木)

学長メッセージ「7/14(月) 学長講話・概略版」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、7月14日(月)に行われた「学長講話」の内容をまとめましたので、ぜひご一読ください。 

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「自分本位から抜け出る」


みなさんは、イエス・キリストが「御父」と呼んだ神様を見たことがありますか? ないですよね。私もありません。

聖書の中にも、「いまだかつて、神を見た者はありません。」と書いてあります。(ヨハネ第一の手紙、4章12節)

でも、見たいですよね。

イエス様の弟子たちも同じで、フィリポという弟子が、イエス様に、「私たちに、あなたが御父と呼ぶ神様を見せてください。そうして下されば、わたしたちは満足します。」とお願いする場面があります。(ヨハネ福音書14章8節)

それに対して、イエス様は、およそ次のように答えています。

「こんなに長い間、あなた方と一緒にいるのに、まだ私がわかっていないのか。私を見た者は、御父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお見せください』というのか。私が御父のうちにおり、御父が私のうちにおられることをあなた方は信じないのか。わたしがあなた方に話していることは、私が自分勝手に話しているのではなく、私のうちにおられる御父が、ご自分の業を行っておられるのだ。」(ヨハネ福音書14章9~10節)

つまり、イエス様は、ご自分の言葉や行いは、神様の業を表しているとおっしゃるのです。

イエス様は、たとえば、どのような言葉を語ったのでしょうか?

「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(マタイ福音書5章40節)

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5章44節)

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ福音書5章39節)

「友のために命を捨てること、これ以上の愛はありません」(ヨハネ福音書15章13節)

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みなさんは、いかがでしょうか。

イエス様は、神様の言葉を語っていると思いますか。

イエス様の「私が自分勝手に話しているのではなく、私のうちにおられる御父が、ご自分の業を行っておられるのだ」という言葉を信じる人は、当然、そう思うと答えるのではないかと思います。

ところが、中には、「イエス様がそう言ってるからそうだ」ではなく、自分で福音書を読んで、これはたしかに、人間の言葉ではなく神様の言葉だと確信してしまう、ちょっと変わった人もいます。私も、そのうちの1人でした。

みなさんと同じくらいの歳に、福音書を読んで、イエス様の語る言葉は、神様にしか語れない言葉だ、人間には無理だ・・・そう確信してしまったのです。

しかし、それと同時に、人間が、イエス様の(ということは、神様の)言葉を実行するのは簡単ではないとも感じました。つまり、実行するには、人間には、何かが足りないのです。何かが足りなくて、実行が難しいのです。

その足りないものとは何か? それは、愛です。

人間が愛に満たされたとき初めて、人間でも、イエス様の語る言葉に自分を近づけることができるのだと思います。

では、その人間に足りないその愛は、どこから人間の内にやってくるのでしょうか?

それは、他ならぬ神様からです。

つまり、神様は、人間に実行困難な言葉だけ与えて、それで終わりではなく、人間がその言葉を実行できるよう、私たちに、愛を注いでくださっているのです。

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では、神様の愛をいただくために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

それは、「自分本位」から抜け出すことです。

マザー・テレサは、「与えるためには、自分本位から抜け出さなくてはなりません。」と語っています。

私たちが「自分本位」から抜け出したとき、神様の愛が私たちの内に注がれ、人間にも、与えること(愛の行い)が可能になるということです。


私たち人間は、臆病なために、どうしても「自分本位(自分大事)」になりがちです。「自分本位」から抜け出るために、少し立ち止まって、自分の中の「自分本位」をさがしてみるのもよいかもしれません。


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