02_学長メッセージ

2026年1月 6日 (火)

【学長からのメッセージ2026.1】気にしない・あきらめる・当てにしない(4)

Cuo_5148_2
星美学園短期大学 学長 阿部健一


気にしない・あきらめる・当てにしない(4)

-“当てにしない” 編-

  「当てにする」ことの中には、当てにする側の勝手な思惑、期待が含まれています。それにもかかわらず、当てが外れたときには、イライラに苛まれます。そして、そのイライラを、自分の思惑、期待を裏切った人にぶつけます。(場合によっては、関係のない「人」や「モノ」に八つ当たりします。)「当てにする」ことが、結果的に、自分にとっても、人にとってもイライラを招くとするならば、初めから「当てにしない」方が賢明ということにもなるでしょう。しかし、人が、全く人を当てにしないで生きていくことは難しいと思いますし、現実的ではないと思います。

****

 そもそも、問題は、「当てにする」こと自体にあるのではなく、当てが外れた時に、イライラに苛まれ、そのイライラを誰かにぶつけてしまうところにあります。したがって、当てが外れてもイライラしなければ、「当てにする」こと自体は、けっして悪いことではないと思います。(表題の「当てにしない」の意味も、「当てにしてイライラしない」ということでしょう。)

****

 私たちは、当てが外れるとなぜイライラするのでしょうか。それは、当てが外れることはあってはならないことだと勝手に決め込んでいるからだと思います。もし、当てが外れることは、当然あり得ることだと初めからわきまえていれば、当てが外れても、そんなにイライラせずにすむのではないでしょうか。そして、「幸いにも」当てが外れなかったときには、「ありがとう」のことばが浮かんでくるのではないでしょうか。

*** *** ***

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学

2025年12月 1日 (月)

【学長からのメッセージ2025.12】気にしない・あきらめる・当てにしない(3)

Cuo_5148_2
星美学園短期大学 学長 阿部健一


気にしない・あきらめる・当てにしない(3)

番外編“キレやすい子の保育”―

 前回、「がまんする」ことと「あきらめる」ことについて触れました。前者は、「思い(欲求)」が通らず、かといって、そのイライラを人やモノにぶつけることはせず、じっと自分の中でそのイライラを処理している状態であり、後者は、イライラの元である「思い」から離れてしまう状態です。「がまんする」状態は、遅かれ早かれ自分の中で処理されて、「あきらめる」に変わっていきますので、「あきらめる」力の元が「がまんする」力であると言えるかもしれません。

 保育現場で保育者が難しさを感じている子どもは、「がまんする」ことができない子ども、すなわち、自分の思いが通らないとそのイライラを人やモノにぶつけて解消しようとする子どもではないかと思います。

 たとえば、噛みつく、叩く、引っ掻く、罵る、レゴのケースをぶちまける、椅子を振り上げ床に叩きつける、自分がプールに入れないのでプールに砂を投げ入れるなどです。そして、保育者が難しさを感じている部分は、それらの行動を制止すると、さらに激しい行動にエスカレートしていく点だと思います。

 このような姿のまま大人になっていくとすれば、本人自身が辛い人生を歩むことになりますから、イライラを人やモノにぶつけない自制心、すなわち「がまんする」力を育てていく必要があります。

 そのポイントは、行動の意識化・客観化、対象化で、その方法は、行動の言語化です。(本人が言葉にできないときは、保育者が「・・・だったのかな」と言語化を助けます。)行動の一部でも、言語化(客観視)できれば、それで良しとします。(当然ながら、子どもの行動を追究する場面ではありません。)

 この対応は、子どもが落ち着くのを待って行います。(イライラの原因となったモノ、人が視界にない場所に移動することも沈静化に有効です。)

 そして、何より重要なことは、「叱る」、「躾ける」という意識を持たないことです。叱られるからしないではなく、自律的に「がまんする」力を育てる必要があります。

 子どもを変えるのは、罰や脅しや叱責や小言ではなく、子どもへの愛と信頼であるというドン・ボスコの教育理念を心に留めて関わっていただければ、子どもは、変わっていくと思います。

*** *** ***

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学

2025年11月 6日 (木)

【学長からのメッセージ2025.11】気にしない・あきらめる・当てにしない(2)~“あきらめる”編~

Cuo_5148_2
星美学園短期大学 学長 阿部健一


気にしない・あきらめる・当てにしない(2)

―“あきらめる”編―

 一般に、人は、自分の思いどおりにならないとキレたり、イライラしたりします。そして、その不快状態をなんとか解消しようとします。

 その方法には、大きく3つあります。

 1つは、自分の思いを妨げる障害物を叩き壊して、あるいは乗り越えて、所期の思いを達成することです。2つ目は、不愉快な気持を、人やモノに当たって軽減することです。そして、3つ目は、自分の思いをなかったことにすること、つまり「あきらめる」ことです。

 1つ目の方法には、2つあります。1つは、「ちゃぶ台返し」のように自分の権威や恫喝によって自分の思いを通すやり方、もう1つは、知恵を絞って自分の思いを通すやり方です。自分の思いを通すにあたり、前者は不適切な方法であり、後者は適切な方法であると言えるでしょう。

 人生には、どんなに知恵を絞っても、どうにもならないことが多々あります。その場合は、「あきらめる」ことによって不快状態をなくすことが適切な方法となります。

 「あきらめる」ためには「あきらめる力」が必要です。この力が育っていなければ、あきらめたくてもあきらめられず、苦しむことになります。したがって、あきらめる力を育てることはとても大切なことで、この点については、次回触れたいと思います。

 あきらめることと、がまんすることとは違います。がまんすることは耐えることですが、あきらめることは手離すことです。

 あきらめるとは、自分が負っている荷物(こだわり、執着)を捨てて身軽になることでもあります。

 人生は、あきらめの連続なのかもしれません。そうであれば、それもまた善いことなのだろうと思います。

 *** *** ***

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学

2025年10月 3日 (金)

【学長からのメッセージ2025.10】気にしない・あきらめる・当てにしない(1)

Cuo_5148_2
星美学園短期大学 学長 阿部健一


―“気にしない”編―

 “気にしない・あきらめる・当てにしない”という言葉は、随分昔にある先生(お名前は、忘れてしまいました。)の講演で聞いた言葉ですが、私の中にずっと生き続け、時に人にも紹介してきました。私たちが、人間関係を生きる上での、1つの知恵であるような気がします。 

今回は、その中の「気にしない」を取り上げてみたいと思います。

私たちは、他人の言動にイライラしたり、不快感を持ったり、心がザワついたりします。それが、自分に向けられた言動であれば、なおさら強いものとなるでしょう。そして、「なんで私は、あなたのせいで、不愉快にならなければならないのですか!?」と、他人のせいでイライラさせられること自体にイライラすることにもなります。

そのようなイライラを回避するための1つの知恵が、「気にしない」です。

「気になること」を「気にしないこと」にするわけですから、簡単ではありません。「自分」が変わることも必要になります。

まず。「気にしない」という心構えをしっかり持つ必要があります。初めは「気にしない」と自分に言い聞かせつつ「気にしている」自分がいますが、修行の中で、「気にしない」という自分への一言だけで「気にしない」スイッチが入る(自分の意志で「気にしない」気持ちに切り替えられる)ようになります。ここまでいけば、修行の完成ですが、さらに達人の境地に至りますと、「気にしないスイッチ」が常にオンの状態(「気にしない」との意識もなく「気にしない」状態)に至ります(なかなか遠い道ですが)。 

私たちは、自分をイラつかせ、ザワつかせ、不愉快にしてくれる人に出会ってこそ、「気にしない」の心構えを通して、人間として成長できるのかもしれません。

 *** *** ***

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学

2025年9月 2日 (火)

【学長からのメッセージ2025.9】先生に叱られちゃったこと

Cuo_5148_2
星美学園短期大学 学長 阿部健一


【先生に叱られちゃったこと】

小学校1年生の時だったと思います。

給食に出た焼きそばを、隣の子といっしょに、スプーンでペタペタ叩いて平べったくしていました。

「増えた増えた」などと言いながら、一緒にケラケラ笑いながら、心が一つに繋がる喜びを感じて、焼きそばをペタペタ、ペタペタしていました。

「やめなさい!食べ物で遊ばない!」

大きな声がして、遊びは、突然、さみしく終了となりました。

 *** *** ***

小学校2年生の時だったと思います。

運悪く、私は、教室の最前列でした。

先生が私の国語の教科書に目を留め、ほとんどのページの下の角が少し(多分2~3ミリ)折れているのを見つけました。

「何ですかこれは。教科書を乱暴に扱うからこうなるんですよ。」

と叱られてしまいました。

先生は、私の隣の、クラス一番の優等生の教科書に目を移しました。

そして、「うっ」と絶句しました。なんと、優等生の教科書も、私と同じ状態だったのです。

先生はつぶやきました。

「あれ、教科書の角が折れるのは、たくさん勉強するせいなのかなあ」

私は、内心うれしくなりました。

「先生、ぼくのことも、よく勉強してる子だと思ってくれたよね」

 *** *** ***

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学

2025年8月 1日 (金)

【学長からのメッセージ2025.8】夏休み特別編:健康診断物語

Cuo_5148_2
星美学園短期大学 学長 阿部健一


 【夏休み特別編:健康診断物語】

1.身長測定(1)

 A:「かかとを下げてください。」

 B:「ああ。これね。補正してます。最近、縮んだんで・・・。」

 

2.身長測定(2)

 A:「頭の後と背中とお尻の3点をきちんと尺柱に付けてくださいね。」

 B:「無理なんですよ。猫背なので。巻き尺で採寸してもらえませんか。」

  *** *** ***

3.聴覚検査(1)

 A:「聞こえてないときは、ボタンを押さないでくださいね。」

 B:「ヂ~~・・・って聞こえてますよ。」

 A: 「耳鳴りは、無視してくださいね。」

 

4.聴覚検査(2)

 A:「ツ、ツ、ツ・・・という音が聞こえたらボタンを押してくださいね。」

 B:「だんだん大きくなってきました。ツ、ツ、ツ・・・が。」

 A:「ではなくて、聞こえたらすぐにボタンを押してくださいね。」 

 B:「ウ~ン・・・無理かな。いつの間にか聞こえてくるんですよ。合図してもらえませんか。音出すとき。」

 

5.聴覚検査(3)

 B:「もう少しボリュームを上げてもらってもいいですか?聞きづらいんで・・・。」

 *** *** ***

6.視力検査(1)

 A:「黒いマルが見えまよね。」

 B:「見えます。」

 A:「どこが欠けていますか?」

 B:「真ん中です。」

 

7.視力検査(2)

 A:「これは、どこが欠けていますか?」

 B:「エイッ! 下っ!!」

 A:「これは?」

 B:「エイッ! 右っ!!」

 A:「普通の声で大丈夫ですよ。」

 B:「見えないときは、気合で当てるんです。」

 A:「ウ~ン・・・たしかに、よく当たりますね。」

 *** *** ***

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学

2025年7月17日 (木)

学長メッセージ「7/14(月) 学長講話・概略版」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、7月14日(月)に行われた「学長講話」の内容をまとめましたので、ぜひご一読ください。 

Img_3838_2

「自分本位から抜け出る」


みなさんは、イエス・キリストが「御父」と呼んだ神様を見たことがありますか? ないですよね。私もありません。

聖書の中にも、「いまだかつて、神を見た者はありません。」と書いてあります。(ヨハネ第一の手紙、4章12節)

でも、見たいですよね。

イエス様の弟子たちも同じで、フィリポという弟子が、イエス様に、「私たちに、あなたが御父と呼ぶ神様を見せてください。そうして下されば、わたしたちは満足します。」とお願いする場面があります。(ヨハネ福音書14章8節)

それに対して、イエス様は、およそ次のように答えています。

「こんなに長い間、あなた方と一緒にいるのに、まだ私がわかっていないのか。私を見た者は、御父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお見せください』というのか。私が御父のうちにおり、御父が私のうちにおられることをあなた方は信じないのか。わたしがあなた方に話していることは、私が自分勝手に話しているのではなく、私のうちにおられる御父が、ご自分の業を行っておられるのだ。」(ヨハネ福音書14章9~10節)

つまり、イエス様は、ご自分の言葉や行いは、神様の業を表しているとおっしゃるのです。

イエス様は、たとえば、どのような言葉を語ったのでしょうか?

「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(マタイ福音書5章40節)

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5章44節)

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ福音書5章39節)

「友のために命を捨てること、これ以上の愛はありません」(ヨハネ福音書15章13節)

Img_3847_2

みなさんは、いかがでしょうか。

イエス様は、神様の言葉を語っていると思いますか。

イエス様の「私が自分勝手に話しているのではなく、私のうちにおられる御父が、ご自分の業を行っておられるのだ」という言葉を信じる人は、当然、そう思うと答えるのではないかと思います。

ところが、中には、「イエス様がそう言ってるからそうだ」ではなく、自分で福音書を読んで、これはたしかに、人間の言葉ではなく神様の言葉だと確信してしまう、ちょっと変わった人もいます。私も、そのうちの1人でした。

みなさんと同じくらいの歳に、福音書を読んで、イエス様の語る言葉は、神様にしか語れない言葉だ、人間には無理だ・・・そう確信してしまったのです。

しかし、それと同時に、人間が、イエス様の(ということは、神様の)言葉を実行するのは簡単ではないとも感じました。つまり、実行するには、人間には、何かが足りないのです。何かが足りなくて、実行が難しいのです。

その足りないものとは何か? それは、愛です。

人間が愛に満たされたとき初めて、人間でも、イエス様の語る言葉に自分を近づけることができるのだと思います。

では、その人間に足りないその愛は、どこから人間の内にやってくるのでしょうか?

それは、他ならぬ神様からです。

つまり、神様は、人間に実行困難な言葉だけ与えて、それで終わりではなく、人間がその言葉を実行できるよう、私たちに、愛を注いでくださっているのです。

Img_3865_3

では、神様の愛をいただくために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

それは、「自分本位」から抜け出すことです。

マザー・テレサは、「与えるためには、自分本位から抜け出さなくてはなりません。」と語っています。

私たちが「自分本位」から抜け出したとき、神様の愛が私たちの内に注がれ、人間にも、与えること(愛の行い)が可能になるということです。


私たち人間は、臆病なために、どうしても「自分本位(自分大事)」になりがちです。「自分本位」から抜け出るために、少し立ち止まって、自分の中の「自分本位」をさがしてみるのもよいかもしれません。


星美学園短期大学 学長メッセージ

2025年6月30日 (月)

【学長からのメッセージ2025.7】「プッツリ時代(続編)」

Cuo_5148_2
星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「プッツリ時代(続編) 

前回、後世の人は、今の時代を「プッツリ時代(神様との繋がりが途切れた時代)」と呼ぶのではないかという話をしました。

しかしながら、今の時代でも、“プッツリ”でない人たちは、います。その“プッツリ”でない人たちが、最近、世界中の注目を集めました。それが、コンクラーベ(ローマ教皇選挙)です。

選挙結果を煙の色で知らせるという珍しさもありますが、それ以上に、普通の選挙とは全く違う選挙である点が関心を集めたのではないかと思います。

普通の選挙では、当選したい人たちが、自分から立候補します。立候補する人たちは、当然、個人的な野心を持った人たちです。自分をPRしたいばかりに盛った話や対立候補の悪口を、時に言ったりします。選ぶ側の人たちは、自分の個人的な思惑に基づいて投票します。

一方、コンクラーベには、そもそも立候補者がいません。したがって、対立候補もなく、自分をPRすることもありません。

では、いったい、誰が、何を手がかりにして、ローマ教皇を選ぶのでしょうか。

選挙権を持つ枢機卿たちが、聖霊の導きを手がかりにして、自分たちの中から、ローマ教皇としてふさわしい人を選びます。

***

世界の国々の指導者(大統領・首相・元首と呼ばれるような人たち)の場合は、自ら立候補して、自らPRして、さまざまな個人的・人間的な思惑に基づいて選ばれますが、バチカン市国の元首(ローマ教皇)は、逆に、個人的・人間的な思惑が極力退けられる中で、祈りと聖霊の導きのうちに選ばれます。したがって、世界中の指導者の中でも、全く異質な指導者といえるでしょう。具体的に言えば、ローマ教皇は、“世界の良心の拠り所”と言ってよいと思います。

この、世界で一番小さな国の指導者(ローマ教皇)の語る言葉に、世界がもっと耳を傾けるなら、世界は、変わっていくのではないかと思います。

*****

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学

2025年6月 2日 (月)

【学長からのメッセージ2025.6】「プッツリ時代」

Cuo_5148_2
星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「プッツリ時代 

今の私たちの時代を、未来の人たちは、何と呼ぶのでしょうか?

 「プッツリ時代」・・・?

人間を超えた存在との繋がりが、プッツリ切れてしまった時代という意味です。

***

私が知っている少し前の日本には、「お天道様が見ている」という言葉が生きていましたし、近くのお地蔵様に花を添えて手を合わせる人の姿は珍しくありませんでした。また、多くの家庭には神棚があり、地域には氏神様がいました。このように、形はいろいろですが、所謂「信心」(人間を超えたものとの繋りのうちに生きる人間の姿)が、ごく当たり前に、私たちの生活の中にありました。

***

その頃には、父の家にも母の家にも、玄関に鍵がありませんでした。旅館にも部屋の鍵がなかったと思います(部屋の中に小さな金庫がありましたが)。また、親は、安心して、子どもたちを外で遊ばせていました。

まだ、「人間とは、やたらとあくどいことをするものじゃない」という、人間に対する基本的な信頼感のようなものがあったような気がします。

***

その基本的な人間への信頼感は、どこから来ていたのでしょうか?

それは、多く人たちが、まだ、自分を超えたものと繋がりの中で生きていたからではないかと思います(たとえば、毎朝お地蔵様に手を合わせている人が、極悪非道な行いをすることは、まずないだろうと考えるように)。

***

ところが、今や、私たちは、人間への基本的不信感を前提に暮らさざるを得なくなりました。

この人間不信時代が到来した原因は何でしょうか?

その大きな原因は(すべてとは言いませんが)、多くの人が人間を超えた存在との繋がりをプッツリしてしまったためではないかと思います。プッツリしてしまったために、人間は、自分を基準に生きるようになり、その結果、お互いに警戒し合って生きる、人間不信社会が生まれてきたのではないかと思います。

***

どうしたらよいのでしょうか?

1つ考えられることは、自分以外の人や生き物を大切にしている絵本・童話に、子どもたちがたくさん出会うことだろうと思います。

「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。(ヨハネ第一の手紙4章7~8節)」

絵本・童話を通して子どもたちの中に愛の火が点ったら、その時、自分を超えたものとの繋がりが生まれるのではないでしょうか?

*****

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学

2025年5月26日 (月)

【学長からのメッセージ2025.5】「聖母祭の学長のお話」より

Img_1859

星美学園短期大学 学長 阿部健一


「聖母祭の学長のお話」より

今日は、みなさんと一緒に聖母マリアをお祝いする日ですので、聖母マリアとはどのような方なのか、二つの出来事を通して、考えてみたいと思います。

1つ目は、受胎告知と言われるできごとです。

ある日、聖母マリアの所に、ガブリエルという天使がやってきて、「あなたは、妊娠して男の子を産みます」と告げます。聖母マリアは、もう、びっくりです。まったく心当たりがないのですから。

ですので、聖母マリアは答えます。

「どうしてそのようなことがあり得ましょうか?私は、まだ、男の人を知りませんのに」

天使は、聖母マリアに答えます。

「神様におできにならないことは、ありません」

この一言で、聖母マリアの疑念は、ぱーっと吹き飛んでしまいます。

そして、言います。

「私は主のはしためです。どうぞ神様のお言葉通りになりますように」

 Img_1856

「はしため」という言葉に、「私は、決して、自分の人生の支配人、マネージャーではありません。ただ神様の手の中で、神様によって生かされている者にすぎません」という思いが込められているように思います。

逆に、「私は、自分の人生の支配人です。私は、自分の人生の隅々まで、すべて自分が仕切って、生きている者です」と思い込んでいる人であれば、次のように言うと思います。

「私のことは、私が一番わかっているんですよ、私が妊娠するなんて、ばかばかしいこと言わないでくださいよ」

****

ところで、聖母マリアには、ヨセフという婚約者がいました。もし、婚約者以外の男性と関係を持ったということになれば、当時のユダヤ社会では、死刑にあたいするくらいの重い罪でした。

普通であれば、そんな危険を冒したくありませんから、「私にも事情がありますので、お断りします」ということになると思います。

しかし、聖母マリアにとって大事なことは、自分のことではなく、正しい選択をすること、行うべきことを行うことでした。

***

もう1つの出来事は、愛する息子であるイエスの死です。

鞭打たれて皮膚がボロボロになり、棘のある茨の冠を頭にはめられ、愛する息子が、十字架に付けられて苦しみのうちに、自分の目の前で死んでいきます。

そのときの、聖母マリアの思いは、どのようなものだったでしょうか?

聖書には、聖母マリアが、泣き叫んだり、取り乱したり、恨みの言葉で呪ったりした・・・という記述は、全くありません。むしろ、聖母マリアは、目の前の現実を、静かな気持ちで受け止めているという印象を受けます。

それは、聖母マリアが強い意志を持って悲しみを抑える気丈夫な方だったからということではなく、聖母マリアの眼差しが、目の前の現実を超えて、もっと遠くを、つまり神の愛に包まれた世界・景色を見ていたからではないかと思います。

****

Photo

スクリーンに写されたのは、ミケランジェロのピエタ像(我が家にあるレプリカ)の聖母マリアとイエス様の顔のアップです。

十字架上で苦しみの中で死んだ息子イエスを胸に抱いている聖母マリアは、どんなお顔をされていますか?

悲しみの底に沈んでいますか? 誰かを恨んでいますか? 誰かを憎んでいますか?

まったく違います。

Photo_2

むしろ、平和で、優しさに満ちた、慈愛に満ちた、安らぎに満ちた、柔和な表情をしています。そこにあるのは、息子への愛だけ、それだけが真実、それが聖母マリアに見えている世界ではないかと思います。

イエス様はどうですか?

母に抱かれている赤ちゃんのようですね。安心しきって、仕合せそうに安らいでいます。

「母さん、息子イエスとして、帰ってきたよ」

そんな安堵と安らぎの表情ですね。

 

愛する息子を、これ以上ない残酷な方法で殺されたのに、聖母マリアは、なぜこんなにも穏やかなのでしょうか。

また、何の罪も犯していないにもかかわらず残酷な刑で殺されたのに、イエス様は、なぜこんなにも穏やかなのでしょうか。

私たちが考え続けていくべき、大切なテーマのような気がします。

*****

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


https://www.c.seibi.ac.jp/

【ブログ】学長からのメッセージ


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す

星美学園短期大学