02_学長メッセージ

2025年1月21日 (火)

学長メッセージ・特別編「学長講話(後期)」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、1月20日(月)に行われた「学長講話」の内容をまとめましたので、ぜひご一読ください。

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 みなさんは、やなせ たかしさん作詞の「手のひらを太陽に」という歌をご存じだと思います。

1番には、ミミズ、オケラ、アメンボが登場し、2番には、トンボ、カエル、ミツバチが登場し、3番には、スズメ、イナゴ、カゲロウが登場します。

そして、どの生き物も、「みんな、みんな、生きているんだ。友達なんだ。」と歌われます。

ミミズもアメンボも生き物ですから、「みんな、みんな、生きているんだ」というのは当たり前ですが、この歌詞のすごいところ、というか驚くべきところは、「友達なんだ」というところです。

みなさんは、どうでしょうか?

ミミズやスズメを「友達なんだ」と思えるでしょうか?

結構難しいですよね。

でも、もし、そんな世界に私たちが生きられたら、きっと毎日が喜びに溢れるのではないでしょうか。この歌は、子どもからお年寄りまで、ずっと歌い継がれていってほしいですね。

実は、やなせ たかしさんの「手のひらを太陽に」の世界は、キリスト教の世界とも重なるのです。キリスト教の視点から見ると、トンボもスズメも人間も神様によって創られ、共に神様の愛によって生かされているからです。

***

話は跳びますが、私は、中学生の時、地面を動き回っているアリンコたちを見て、「アリンコは、何のために生きてるんだろう?君たちの人生に、何か意味があるの?」と考えたことがあります。今でも覚えているので、当時の私にとっては、かなり重要な問題だったのだろうと思います。

そして、今は、というと...、アリンコたちは、自分の人生の意味や目的なんか考えていない。ただただ、生きていることを嬉しがって生きているんだと思っています。言うまでもなく、アリンコだけでなく、アメンボもトンボもスズメも、ただただ、生きていることを嬉しがって、喜んで、生きているんだと思います。

しかし、自由に動いたり、泳いだり、飛んだりできない野の花は、どうでしょうか?生きていることを嬉しがっているのでしょうか?

***

みなさんは、「お花が笑った」という歌をご存じだと思います。

でも、お花は、笑うのでしょうか?

実は、笑います。高校のとき、漢文の授業でそう習いました。

「花が咲く」の「咲く」という漢字は、もともとは、「笑う」という意味なのだそうです。だから、咲くという漢字は、口偏なのだそうです。

つまり、今、私たちが、「お花が咲いた」と言っているのは、古い漢字の意味からすると、「お花が笑った」という意味になるのです。

誰にも知られないままに、ひっそりと咲いている儚い一輪の花も、与えられたその命を喜んで生きていると、私は、思います。

***

では、人間はどうでしょうか?

日々、生きていることに喜びや嬉しさを感じているでしょうか?

ミミズやスズメが生きていること自体を喜んで生きているならば、同じ生きている人間も、そうでなければおかしいですよね。

実際、1歳、2歳の赤ちゃんを見てください。生きていること自体が嬉しくてしかたないとしか思えません。人間も、アリンコやアメンボやスズメのように、日々、喜んで生きられるように、神様は、本当は、お創りくださっているのです。

本当は...というのは、人間の場合、大人になると様子が変わってしまうからです。人間は、大人になると、日々、喜んで生きることができなくなってしまいます。いったい、なぜなのでしょうか?

アリンコやアメンボやスズメや野の花や人間の赤ちゃんと、人間の大人は、いったい何が違うのでしょうか?

***

アリンコやアメンボやスズメや野の花や人間の赤ちゃんは、明日のことを全然心配していません。

みんな、自分の存在を超えた何かに、...アリンコやアメンボは、自然から与えられるものに、人間の赤ちゃんは、世話をしてくれる大人に、自分を委ねて生きています。

つまり、自分で自分の心配なんかしないで、自分を包んでくれている、自分を超えた何ものかに自分を任せて、委ねて、生きているのです。

そのように、自分を超えた何かに自分を委ねて生きるとき、本来神様からいただいている、生きる嬉しさ、喜びが、自分の中に溢れてきます。

***

人間の大人は、いつも明日のことを心配しています。その心配を、自分で何とかしなければと、いつも自分のことで心がいっぱいです。重い荷物のように、自分の心配を、自分の背中だけ背負って、ひたすら、果てのない、急な坂道を登っていくかのようです。

***

先ほど、イエス様の言葉が読まれました。

「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたには、なおさらのことである。」

つまり、明日は燃やされてしまうかもしれない野原の花でさえも、神様は、人間が造るどんな装いよりも美しく飾ってくださる。だから、ましてや、人間であるあなた方のことを、神様が良いように計らってくださらないはずはないではないかということです。

ですから、私たち人間の大人も、丁度赤ちゃんが大人を信頼して自分を委ねるように、神様に、自分の日々の心配を、たとえ幾分かでも、委ねてみるのがよいと思います。きっと、その分、私たちが元々神様からいただいている生きる喜びが、心の中に息を吹き返してくると思います。

***

みなさんの中には、今年、成人式を迎えた人がいると思います。

大人の人生には、言うまでもなく、いろいろな困難が待ち構えています。

たとえ困難に陥ろうと、みなさんの重荷を神様に委ねながら、神様からいただいた生きる喜びを失わずに、朗らかに、快活に、人生の坂道を登っていっていただきたいと思います。


幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す
星美(せいび)学園短期大学 
SEIBI Gakuen College 
幼児保育学科  
専攻科幼児保育専攻

2025年1月10日 (金)

【学長からのメッセージ2025.1】「地上の知恵と上からの知恵」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「地上の知恵と上からの知恵」

 エデンの園のアダムとエバは、神様から「善悪の木からは、決して食べてはならない。」と言いつけられますが、エバは、蛇にそそのかされて、その木の実を口にしてしまいます。

さらに、アダムもエバにそそのかされて、その実を食べてしまいます。

そのときから、人間は、自分の知恵によって(神様の知恵から離れて)生きていくことになります。神様と人間の間に亀裂を生じさせるという、蛇(サタン)の強烈な目論見は、見事成功したと言えるでしょう。

ところで、人間が木の実を食べて得た知恵とはどの程度のものでしょうか。

木の実を食べると「二人の目は開け」(創世記3章7節)、まず、自分たちが裸であることを知ります。そして、恥ずかしく思います。つまり、「見られている自分」を知る知恵を得たといえるでしょう。

次に、木の実を食べたことを神さまから詰問されたエバは、蛇にだまされたと、罪を蛇になすりつけます。そして、アダムは、エバのせいだとエバに罪をなすりつけます。つまり、罪を他人のせいにして自分を守る知恵を得たといえるでしょう。

さらに、アダムとエバの子、カインは、弟アベルを嫉妬心から殺してしまいます。つまり、自分と他人とを比較する知恵を得たといえるでしょう。そして、自分と他人を比較する知恵によって、嫉妬心・妬みが生み出され、自分が気に入らない相手を殺すという知恵を得たといえるでしょう。

このように、人間が神さまの言いつけに逆らって得た知恵というのは、「利己的な自己保身の知恵」であり、「自分を見せない(隠す)知恵」であり、「自分と他人を比較する知恵」であり、「気にくわない者を抹殺する知恵」であるといえるでしょう。

聖書は、「地上の知恵」と「上から出た知恵」について次のように語っています。

「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブの手紙3章14~18節)

私たちは、幸いにも、イエス・キリストを通して、「上からの知恵」に触れることができます。

「イエスが行った奇跡の第一は、その言葉である」と、誰かが書いていましたが、私も、二十台に、初めてイエスの言葉に触れた時、「どう考えても、これは人間の言葉ではない」と直感したのを覚えています。今思うと、この直感(上からの知恵の言葉)が、私をキリスト信徒へと方向付けたのかもしれません・・・そんな気がしています。

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星美学園短期大学

2024年12月10日 (火)

【学長からのメッセージ2024.12】「クリスマスとマリア様」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「クリスマスとマリア様」

12月は、クリスマスです。

クリスマスというと、私は、マリア様のことを考えてしまいます。

   

ある日、マリア様の所にガブリエルという天使がやってきます。そして、マリア様に「あなたは、妊娠して男の子を産みます」と告げるのです。マリア様の心に浮かんだことは、「それはありえない」ということでした。

マリア様は答えます。

「どうしてそのようなことがありえましょうか。私は、男の人を知らないのです。」

しかし、天使は、言います。

「神様におできにならないことはありません」

マリア様は、それで納得します。

マリア様は、答えます。

「神様のお言葉通りになりますように」

そして、実際に妊娠します。

 

ところが、事情は、そう簡単ではないのです。

マリア様には、ヨセフという婚約者がいました。当時のユダヤ社会では、正式に結婚するまでは男女別々に暮らしていましたので、マリア様が妊娠したのは一体どういうことだということになります。もし、マリア様が婚約者以外の男性と関係を持ったということになれば、当時は、死刑にあたいすることでした。そのことは、当然、マリア様も承知されていたと思います。

そのような事情ですから、普通の人でしたら、「私にも都合がありますから、勝手にそんなこと決められても困ります」と、天使の言葉を拒絶するだろうと思います。それが、私たちにとっては、「正しい」判断であると思われるわけです。ところが、マリア様は、自分の事情など全く顧みずに、「お言葉のとおりなりますように」と答えるのです。マリア様は、神さまの思い・願いに従うことだけが正しいのだということに、一点の疑いも持たないのです。

私たち人間は、「あれが正しい」、「いやいやこれが正しい」などと議論しますが、人間が考える「正しいこと」とは、いったい何でしょうか。私たちは、日々、自分の「正しさ」をぶつけ合いながら、傷つけ合っているのではないでしょうか。

人間の分際で「本当に正しい」判断を下すことなど、残念ながら不可能なのです。ところが、私たち人間には、この真実を、素直に、謙虚に認めることができません。

私たちが、真に正しい判断ができるとすれば、それは「神さまの思い・願い」に自分の思いを重ね合わせたときだけです。マリア様は、それを、何のためらいもなく行いました。そういう意味で、マリア様は、私にとって憧れなのです。

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星美学園短期大学

2024年11月 1日 (金)

【学長からのメッセージ2024.11】「「僕たち」ということ」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「「僕たち」ということ」

 「僕が伝えたいのは、君たちにとっての“僕たち”の範囲を広げてほしいということや。家族、学校の友人や会社の同僚、同じ国で生きる人々、そして世界全体。空間的な話だけやなく時間的にも広げられる。過去の人や未来の人を含めて“僕たち”になりえる。」

これは、田内 学 著「きみのお金は誰のため」(東洋経済新報社)の一節です(216頁)。

何かにつけてキリスト教的視点から捉えてしまうことが習い性になってしまった私は、この一節を読んだときに、イエスが「天の国は次のようにたとえられる・・・」と語られた「ぶどう園の話」を思い浮かべてしまいました(マタイによる福音書20章1-15節)。

ぶどう園の主人が、収穫の人手を得るために朝早く広場に行き、1日1デナリオンの賃金で働き手を雇います。しかし、まだ人手が足りないので、9時、12時、15時と、働き手を探しに広場に出かけます。さらに、17時ごろ広場に行ってみると、まだ誰からも雇って貰えない人たちがいたので、その人たちもぶどう園で雇います。仕事が終わり、主人は、まず、その一番最後に来た人たちに1デナリオンの賃金を払います。それを見た朝早くから働いている人たちは、自分たちはもっと多く貰えるはずだと期待を膨らませます。ところが、主人が払ったのは、同じ1デナリオンでした。

当然、文句が出ます。

「1日働いた俺たちと1時間しか働いていないあいつらと同じ1デナリオンとは、どうにも合点がいきませんぜ!」

しかし、主人は、次のように答えます。

「あなたたちとは、1日1デナリオンの約束をしたはずです。私は、ちゃんとそれを守りました。ですから、それでいいじゃないですか。私は、最後の人たちにも、あなたたちのようにしてあげたいのです。私が自分のものを自分のしたいようにしてはいけませんか」

正論です。ごもっともです・・・が、早朝から夕方までびっしり働いた人たちの立ち位置に立てば、気持ち的には、なかなか納得しにくいと思います。

・・・が、もし、1日仕事にありつけないまま広場に立ち尽くしていた人が「僕たち」の一人だったらどうでしょう。夕方になってやっと仕事にありつけた「僕たち」の一人が、なんと、朝から働いている僕たちと同じお金を貰えたら、僕たちもうれしくないですか。「おいおい、よかったじゃん!」と肩を叩きたくなりませんか。

「僕たち」(「私たち」「おれたち」「うちら」)の範囲をどんどん広げていったら、きっと、今とは違う世界が見えてくると思います。

そんな世界を、私たちは、いつになったら生きられるのでしょうか。

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2024年10月 1日 (火)

【学長からのメッセージ2024.10】「包まれているということ」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「包まれているということ」

 どこで読んだのかは、すっかり忘れてしまいましたが、人間にとって、“包まれている”という感覚を持つことは、とても大事なことであるという意味の文を読んだことがあります。

 私の父は、晩年、認知症になり、自身の妻(すなわち私の母)に対して「どちらからおいでですか?」と言ったり、「私は、結婚したことがないんですよね」と言ったりしていました。息子である私については、当然息子という認識はなく(なにしろ結婚したことがないのですから)、“どこかの親切な人”という認識でした。

 そんな晩年の父が、音声自動再生のように、繰り返し、繰り返し語っていたのが、自身の母(私からすると、あのやまゆりを飾ってくれた祖母)のことでした。内容は、たいてい、どぶろくを密造していた話でした。そして、私に言うのです。「あんたも、一度、うちのお袋のどぶろくを飲んでみるといいよ」

 父の中では、お袋が、秋田の実家に、リアルに生きているのです。いくら、私が「もう死んで、いないんだよ」と理を尽くして説明しても、馬耳東風でした。父の「お袋に会いたい」という思いを、私は、その都度、はぐらかすしかありませんでした。

「認知症になると、一番よかった時代に還る」と誰かに聞いたことがあります。

 父は、農家の三男坊で、高等小学校を出してもらうと、家を出て就職しました。そして、長い長い人生を歩んできました。そして、最後に歩んでいこうとした場所は、母の愛に包まれた場所でした。

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星美学園短期大学

2024年9月 4日 (水)

【学長からのメッセージ2024.9】「やまゆりの思い出」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 「やまゆりの思い出」

 私の記憶の中にある最初の花の思い出は、母が作った小さな花壇です。

3歳の頃、両親が住み込みで働いていた日暮里から谷中の小さな家に引っ越しました。(リヤカーに、私と布団とアイロンを乗せて、父が前になり、母が後になって、寛永寺坂をゆっくりと登っていく夕暮れの情景は、なぜか切ない思い出として残っています。)

その家は、六畳の和室と三畳の土間だけの、路地奥の小さな家でしたが、裏には日当たりのよい小さな空き地がありました。そこに、母が小さな花壇を造ったのです。そこに咲いた花たちを見たとき、うれしさで一杯になりました。それが、私の人生の、最初の花の思い出です。 

私の人生の中で、最強の花の思い出は、祖母が摘んだやまゆりです。理由は、そのやまゆりが、祖母の、健ちゃん(私)への愛情そのものだったからです。

父の実家が秋田の山間にある農家で、私は、小学生のころから大学生の頃まで、夏休みの何日かを父の実家で過ごしました。

私が訪れるたび、祖母は、一本の大きなやまゆりをガラスの花瓶に飾ってくれました。そのやまゆりは、日当たりのよい山道の端に、毎年、大輪の花を咲かせていました。それを、祖母が、私のために摘んできてくれるのです。

が、実は、その立派なやまゆりが、私は、大の苦手でした。その香りが、私には、キツすぎたのです。

「飾ってほしくないな」

これが正直な思いでしたが、そんなこと祖母には言えませんでした。

「健ちゃんは、お花が大好きだ。あの立派なやまゆりを飾ってあげたら、健ちゃんは、きっとよろこんでくれるに違いない」

もう、そう信じきって、私のために飾ってくれるのですから。

あのやまゆりは、今、どうしているのでしょうか。今も、健ちゃんのために自分を摘みに来る“ばっぱ”を、夏の日差しの中で、待っているのでしょうか。

【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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2024年7月29日 (月)

学長メッセージ・特別編「学長講話:後編」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、7月22日(月)に行われた「学長講話」の内容を前・中・後編として、まとめましたので、ぜひご一読ください。

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お待たせしました!後編です。

前編の内容はこちらから

中編 の内容はこちらから


 では、私たちはどのようにしたら、心の中に「愛」を持てるようになるのでしょうか?

 キリスト教では、「愛」は、人間が創り出すものではなく、神さまからいただくものと考えます。では、どうしたら、私たちの心の中に、神様の愛をいただくことができるのでしょうか?ということになります。

結論からいうと、それは「自分を捨てることによって」です。

わかりやすく説明するために、私たちの心を、1つの「器」と考えてみます。今、この「器」が、自分のことだけで一杯になっているとき、神様の愛は、この「器」の中に入ることができません。自分のことだけで目一杯なので、神様の愛を受け入れる余地がないのです。しかし、逆に、「器」から自分のことを捨てていけば、空いたところに、神様の愛が、自然に入ってくることになります。神様の愛は、いつも、みなさんの器(つまり心)の中に入りたがっているからです。

神様の愛を器に受けるためには、ただ器の中から「自分のこと」を捨てていけばよいのです。ではどうしたら、器の中から、自分のことを捨てることができるのでしょうか?

その答えは、皆さんご存じの、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中にあります。

 「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシ、ワカリ、ソシテワスレズ」の一節です。

ものごとを考えたり、判断したりするときに、「自分第一」「自分優先」ではなく、自分のことは勘定に入れずに、あるいは、自分のことは後回しにして、あるいは、自分のことはいったん脇において、考えるということです。

そうすることによって、器の中から自分のことを捨てていくことができます。

といいますと、反論があるかもしれません。

・・・いやいやいや、ちょっと待ってくださいね。

自分のことを勘定に入れなかったり、自分のことを後回しにしたりしたら、自分が損するだけじゃないですか?!

・・・いやいやいや、この世界だいたい逆になります。

自分のことを後回しにする人の方が、むしろ得をすることが多いのです。最後には得をしている。これが人生の不思議な真理です。

・・・いやいやいや、ちょっと待って。

自分のことを心の中から捨てていったら、自分が自分でなくなってしまうではないですか?・・・これも、ちがうのです。自分を捨てれば捨てるほど、実は本当の自分になっていくのです。自分と思える自分となっていけるのです。「自分第一」「自分優先」で生きている自分は、実は本当の自分ではないからです。これも人生の不思議な真理です。

とは言っても、みなさんは若いですから、自分を勘定に入れないで物事を考えるということは、なかなかハードルが高いかもしれません。私も若い頃は、自分のことばかり考えていました。

そこで、今日は、特別に、自分を捨てることを意識しなくても、心という器の中に、神様の愛をいただくことができるお祈りを、みなさんに教えることにします。

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お祈りする気のない人も、ぜひ、メモしてください。

では、言います。

 「神さま、あなたの愛が、私を通して、周りの人たちに表されますように、そして、私の言葉と行いが、いつも愛からのものでありますように」

男子の場合は、「私」ではなく、「俺(僕)」でもいいです。

「神さま、あなたの愛が、俺(僕)を通して、周りの人たちに表されますように、そして、俺(僕)の言葉と行いが、いつも愛からのものでありますように」

カッコいいですよね!

さて、これから夏休みに入ります。このお祈りは、みなさんの夏休みを素晴らしいものにしてくれると思います。

ぜひ、よい夏休みをお過ごしください。


星美学園短期大学 学長メッセージ

2024年7月26日 (金)

学長メッセージ・特別編「学長講話:中編」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、7月22日(月)に行われた「学長講話」の内容を前・中・後編として、まとめましたので、ぜひご一読ください。

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お待たせしました!中編です。

前編の内容はこちらから

後編の内容はこちらから


本日配布しました「しおり 2.聖書朗読(コロサイ人への手紙 3章12-17節)コロサイの信徒への手紙  本文2行目です。

「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。」とあります。

「身につけなさい」と言う言葉に注意してください。「~しなさい」とは言っていませんね。

 その3行下、同じく「愛を身につけなさい」と言っています。 

 その2行下、「キリストの平和があなた方の心を支配するように」とあります。「キリストの平和が、あなたの心を支配するように」と言っています。行いではなく、心の問題なのです。 

 その3行下、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」とあります。「あなたの内に豊かに宿るようにしなさい」と言ってます。宿ることが問題なのです。

 つまり、聖書の言葉は、「行い」のことではなく、行いを創り出す源にある、その人の「心」のあり方について語っています。

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では、その「心のあり方」とは何か?それは、キリスト教では、「愛」ということになります。

2年生、専攻科生のみなさんの中には、「どんな立派な行いをしても、そこに「愛」がなければ虚しい」という聖書の言葉が頭に浮かんだ人がいるかもしれませんし、また、専攻科生の中には、「何をしたかではなく、そこにどれだけ愛を込めたかが大事です」というマザー・テレサの言葉が浮かんだ人がいるかもしれません。

先ほど、電車で、喜んでおじいさんに席を譲る人と、優先席なので仕方なく、いやいや席を譲る人の話をしましたが、席を譲るという行いは同じでも、心に愛があるか否かが、決定的に重要だということです。

さて、ここから話の核心になります。

が、この続きは後編で

 ・・・ to be continued


星美学園短期大学 学長メッセージ

2024年7月23日 (火)

学長メッセージ・特別編「学長講話:前編」

今回の学長メッセージは、学長メッセージ特別編として、7月22日(月)に行われた「学長講話」の内容を前・中・後編として、まとめましたので、ぜひご一読ください。

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 みなさん、こんにちは。 こうして、学生の皆さんに集まっていただき、共に集いのひとときを持てることに、感謝したいと思います。

 

 私は、だいたい月2回くらいのペースで、保育園を訪問しています。保育について、保育士さんと話し合ったり、時にはお母さんと話し合うこともあります。 

 私が保育園に行くと、子どもたちが私に声をかけてくれます。

 ここで、問題です。突然ですが・・・。

 子どもたちは、私に、どのように声をかけてくれるでしょうか?

 以下の4択から、1つ選んでください。

 ① ねえ、おにいちゃん ② ねえ、おじちゃん ③ ねえ、おじいちゃん ④ ねえ、じいさん

 さあ、どれでしょう。  

 正解は、③ ねえ、おじいちゃんconfidentです。

 たまに、「おじちゃん」と呼んでくれる子もいますし、先週行った保育園では、「ねえ、誰のお父さんなの?」という子もいましたけど、だいたい、普通に「おじいちゃん」と認識されるようになりました。 

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 ここから本題に入ります。

 このように、普通に、「おじいさん」と認識してもらえるようになったおかげで、これまで経験できなかったことが、経験できるようになりました。

 それは、いったい何でしょうか? どうですか? 

 ヒント:電車 traintrainです。

 

 そうですね。電車で席を譲ってもらえるようになったことです。これはうれしいですね。

 楽させてもらえるということもありますが、人の優しい心、親切な心、思いやりの心に触れる機会が与えられるようになったという、ちょっとした喜びです。

 でも中には、席を譲られて「年寄り扱いするのか」と不機嫌になるおじいさんも、聞くところによると、いるようですね。せっかくの、優しい心を踏みにじってしまうようで、少し悲しいですね。

 

 先日、こんな出来事がありました。

 大宮駅から乗り込んできた、おじいさんが、優先席に座っていた若い男性の前に立って、吊革にぶら下がって覆いかぶさるように前傾姿勢になり、「おい、そこどけや、優先席やないかい」みたいなオーラをとばし始めたのです。

 若い男性は、そのすごいオーラshineに気づいたようで、ふてくされたように、席を立ちました。そして、そのおじいさんは、その空いた席に、「当然じゃろ」みたいな顔で、座ったのでした。

 若者は、席を譲るという好ましい行為をしたのですが、そこに「やさしさ」はなく、おじいさんにも「感謝の心」がありませんでした。ただ、無言の喧嘩みたいな、虚しいやりとりがあっただけでした。

 さみしいですね。

 

 先ほど、聖書が朗読されました。

 その中で、特に注目してほしいことがあるので、ちょっとお手数ですけど、お手元のしおりの「聖書朗読」の箇所を開いていただけるとありがたいです。

今回は、ここまでです。この続きは「学長講話:中編」で! 

・・・ to be continued


星美学園短期大学 学長メッセージ

2024年7月 3日 (水)

【学長からのメッセージ2024.7】「かみさまは どこに いるのかなあ?」(のつづき)」

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「かみさまは どこに いるのかなあ?」(のつづき)

 前回、しょうちゃんのおじいちゃんは、しょうちゃんに、「かみさまは、しょうちゃんの心の中に、いっしょにいてくれる」と話しました。

おじいちゃんなりに、そのことを、もう少し考えてみました。

ひとつは、「かみさまは、心の中にいっしょにいてくれる」といっても、一人ひとりの心の中に、別個に居られるわけではないということです。(当たり前ですね。)

かみさまは、一人ひとりの心の中に居られながら、同時に一人ひとりを超えて居られます。逆に言えば、一人ひとりを超えて居られるかみさまが、私たち一人ひとりの心の中にも、居てくださるということです。

そういう意味で、心の中にかみさまが居られる人たちは、みな、かみさまによって“1つの人たち”です。

もう1つ考えたことは、「かみさまは、私たちの心の中にいっしょにいてくれる」というときの「私たちの心」です。

「私たちの心」というと、まず「心の世界」と言えるような「心」が思い浮かびます。その「心の世界」のような「心」の中に、かみさまが居られ、私たちは、そこに居られるかみさまに向かって、いつでも、どこでも、どんなことでも、祈り、願い、語りかけることができます。

もう1つ、私たちのことばや行いを産み出す(源となる)『心』があります。「心根がやさしい」とか「心が卑しい」とか「心がまっすぐだ」などというときの『心』、つまり、その人の日頃の行いを産み出す元となっている『心』です。この『心』は、私たちがどう生きるかに関わるとても大切な『心』です。この『心』の中に、かみさまがいてくださることは、なんと心強いことでしょうか。

私たちは、それに応えて、次のように祈りたいと思います。

「私の言葉や行いを通して、あなたの愛が表されますように」

「私の言葉と行いが、いつも、愛からのものでありますように」

追記:8月は、暑さのため、「学長メッセージ」をお休みします。


【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)


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