【学長からのメッセージ2023.9】縦の糸と横の糸(続編)
星美学園短期大学 学長 阿部健一
前回は、中島みゆきさんの「糸」について、縦の糸は「神様」、横の糸は「私」という特殊なお話しをしましたが、普通は、2本の糸は、2人の人間、中でも恋人同士として理解されるのではないかと思います。
しかし、恋人同士で、はたして、中島みゆきさんが描く「誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる布」になれるのでしょうか... 必ずしも、簡単ではないと思います。なぜなら、恋人同士でも、ほぼ、自分本位だからです。自分本位の2本の糸が揃っても、「布」になるのは難しいのです。「布」というのは、2本の糸がお互いに身を挺して、きつく支えあうことによって生まれるものだからです。(そういう意味で「布」は、「自分を捨て、自分になる」という人生の真理をわかりやすく語っているようにも見えます。)
愛し合っている恋人同士も、ほぼ自分本位... と述べましたが、世間に流布している恋の歌をチェックしていただければ明らかだと思います。「そばにいてくれ」、「行かないでくれ」...と、“自己中心語”のオンパレードであることがわかります。
(とても分かりやすい例が、西野カナさんの「トリセツ」です。)
昔、私に洗礼を授けてくださった外国人の神父様が、こんなことをおっしゃいました。
「結婚講座に来る若いカップルに『あなたは、相手のために命を捨てることができますか』と訊くと、たいてい困った顔になります。」
それが普通なのです。恋人同士であっても。
(もっとも、老夫婦に同じ質問をすると、『もちろんです』という顔で頷くことが多いそうですが...。)
話を元に戻しまして、それでは、どんな恋人同士も、「布」にはなれないのか?...答えは、“いいえ”です。世の中には、「誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる布」となった2本の糸が存在します。
2日前に結婚したばかりだという若い夫婦が、多額のお金を寄付するためにマザー・テレサのところにやってきました。そのお金は、自分たちの結婚披露宴のためのお金でしたが、結婚する前から、それを全部寄付することに、2人で、決めていたのです。なぜなら、愛で結ばれた自分たちの結婚生活を、他の人に愛を捧げる行いで、始めたかったからでした。
マザー・テレサは、この若いカップルについて、次のように語っています。
「彼らのように、自分たちの愛を人と分かち合おうとする心は、神様からいただく恵なのです」(M・Kポール「コルカタの聖なるマザー・テレサ」87ページ サンパウロ)
中島みゆきさんの「糸」の最後は、次の歌詞で結ばれています。
「縦の糸はあなた、横の糸は私、逢うべき糸に出逢えることを、人は、仕合わせと呼びます」
「誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる布」に、自分と共に織りあげられる、そんな相手の糸に出逢えること、それこそが仕合わせなのだというのです。マザー・テレサの前に現れた若いカップルは、まさに、そのような「逢うべき糸」に巡り会えた、仕合わせな2人であるといえるでしょう。
ところで、お互いに支え合い、「布」となり得る愛をもった2本の糸も、「織り手」がいなければ、「布」に仕上がることはないでしょう。マザー・テレサは、「自分たちの愛を人と分かち合おうとする心は、神様からいただく恵なのです」と語りました。
中島みゆきさんの「糸」も、「逢うべき糸」に巡り合った2本の糸が、その愛を誰かと分かち合う(誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる「布」になる)というお話しでした。
ということは、この仕合わせな2本の糸が「誰かを暖めうる、誰かの傷をかばいうる布」に織られることも、「神様からいただく恵」によるといえるのではないでしょうか。
そこで、結論です。「糸」が「布」になるためには、織り手が必要です。中島みゆきさんの「糸」は、「自分たちの愛を人と分かち合う布」に織り上げられました。その「自分たちの愛を人と分かち合おうとする愛」は、神様からいただく恵みです。ということは、中島みゆきさんの「糸」という歌の中に、実は、仕合わせな2本の糸の「織り手」として、「神様」が登場しているのです!!
「ちょっ、ちょっ、ちょっと、待ってね。なんぼなんでも、深掘りしすぎなんでないかい」...ですかねえ...そうなっちゃうんですけど...私的には...。
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