【学長からのメッセージ2023.8】縦の糸と横の糸
星美学園短期大学 学長 阿部健一
カトリックの洗礼を受けて40年近くたちますと、普通の歌が、神様と私のことをうたっている歌として聞こえてくることがあります。中島みゆきさんの「糸」と、さだまさしさんの「天までとどけ」です。今回は、「糸」について、お話しします。もし、興味がおありでしたら、お読みください。
「糸」の、1番では、「縦の糸はあなた、横の糸は私、織りなす布は、いつか誰かを暖めうるかもしれない」、2番では、「縦の糸はあなた、横の糸は私、織りなす布は、いつか誰かの傷をかばうかもしれない」と歌われます。
この歌は、二つの糸が織られて「人の仕合わせを願う愛」(布)へと変わる(昇華される)、そのような愛(人間愛)をうたっている歌だと思います。したがって、必ずしも、2つの糸が男女である必要は、ありません(恋愛の歌ではないので)。聴く人が、それぞれに「縦の糸のあなた」をイメージすれば良いのです。が、「縦の糸のあなた」に神様をイメージする人は、さすがに、希有だと思います。その希有な人の一人が、私になります。
「縦の糸のあなた」が、なぜ神様なのか。それは、「横の糸の私」が、神様なしには、何もできないからです。もしも、「横の糸の私」が、「誰かを暖めうる」また「誰かの傷をかばうかもしれない」布に変わり得るとすれば、それは、「縦の糸」が「神様」であるときに限られるのです。
私は、自分のために祈るとき、大概、次のように祈っています。
「私の言葉や行いが、いつも愛からのものでありますように。そして、神様の愛が、私をとおして表されますように」
「私の言葉や行いが、いつも愛からのものでありますように」という祈りは、多分、私が、長年「教育」という場にいるからだろうと思います。
続く「神様の愛が、私をとおして表されますように」という祈りは、「愛の源泉」は、神様にあって、私は、それを受ける「器」に過ぎないという信念があるからです。つまり、私の「愛」は、神様からいただくしかないのです。ですから、「横の糸の私」が「愛の布」に変わるためには、どうしても、「縦の糸」は、神様でなければならないのです。
20年ほど前、中島みゆきさんは、キリスト教的な価値観をご存じなのではないかと思ったことがありました。
それは、「救われない魂は、傷ついた自分のことじゃなく、救われない魂は、傷つけ返そうとする自分だ」(「友情」の一節)という歌詞に出会ったときです。その後、中島みゆきさんが、カトリックの大学を出たことを知り、そうか、そうか、やっぱりな・・・と納得した憶えがあります・・・勝手にですが・・・。
中島みゆきさんご自身は、「縦の糸であるあなた」をどのような方としてイメージされているのでしょうか。歌詞からは、全く汲み取ることができません。
もしかして、私と同じでは??・・・「いやいやいや、なんぼなんでも、ムリなんでないかい」・・・ごもっともです・・・が・・・。
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