【学長からのメッセージ2024.11】「「僕たち」ということ」
星美学園短期大学 学長 阿部健一
「「僕たち」ということ」
「僕が伝えたいのは、君たちにとっての“僕たち”の範囲を広げてほしいということや。家族、学校の友人や会社の同僚、同じ国で生きる人々、そして世界全体。空間的な話だけやなく時間的にも広げられる。過去の人や未来の人を含めて“僕たち”になりえる。」
これは、田内 学 著「きみのお金は誰のため」(東洋経済新報社)の一節です(216頁)。
何かにつけてキリスト教的視点から捉えてしまうことが習い性になってしまった私は、この一節を読んだときに、イエスが「天の国は次のようにたとえられる・・・」と語られた「ぶどう園の話」を思い浮かべてしまいました(マタイによる福音書20章1-15節)。
ぶどう園の主人が、収穫の人手を得るために朝早く広場に行き、1日1デナリオンの賃金で働き手を雇います。しかし、まだ人手が足りないので、9時、12時、15時と、働き手を探しに広場に出かけます。さらに、17時ごろ広場に行ってみると、まだ誰からも雇って貰えない人たちがいたので、その人たちもぶどう園で雇います。仕事が終わり、主人は、まず、その一番最後に来た人たちに1デナリオンの賃金を払います。それを見た朝早くから働いている人たちは、自分たちはもっと多く貰えるはずだと期待を膨らませます。ところが、主人が払ったのは、同じ1デナリオンでした。
当然、文句が出ます。
「1日働いた俺たちと1時間しか働いていないあいつらと同じ1デナリオンとは、どうにも合点がいきませんぜ!」
しかし、主人は、次のように答えます。
「あなたたちとは、1日1デナリオンの約束をしたはずです。私は、ちゃんとそれを守りました。ですから、それでいいじゃないですか。私は、最後の人たちにも、あなたたちのようにしてあげたいのです。私が自分のものを自分のしたいようにしてはいけませんか」
正論です。ごもっともです・・・が、早朝から夕方までびっしり働いた人たちの立ち位置に立てば、気持ち的には、なかなか納得しにくいと思います。
・・・が、もし、1日仕事にありつけないまま広場に立ち尽くしていた人が「僕たち」の一人だったらどうでしょう。夕方になってやっと仕事にありつけた「僕たち」の一人が、なんと、朝から働いている僕たちと同じお金を貰えたら、僕たちもうれしくないですか。「おいおい、よかったじゃん!」と肩を叩きたくなりませんか。
「僕たち」(「私たち」「おれたち」「うちら」)の範囲をどんどん広げていったら、きっと、今とは違う世界が見えてくると思います。
そんな世界を、私たちは、いつになったら生きられるのでしょうか。
【関連記事】 学長が語る 障がい児保育 第1回~第8回(最終回)
【ブログ】学長からのメッセージ
幼稚園教諭・保育士・特別支援学校教諭の取得を目指す
星美学園短期大学