02_学長メッセージ

2022年9月12日 (月)

【学長からのメッセージ2022.9】「まあ、いいか」について(教師編)

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星美学園短期大学

 学長 阿部健一


 25年くらい前の、ある専門学校に勤めていたときの話です。その専門学校は、男女共学で、保育士と介護福祉士を養成していました。

 服装・髪型は自由でしたので、高校を卒業したばかりの新入生は、お花畑のように色とりどりの髪でキャンパスを行き交うのでした。しかし、それも、最初の実習が始まるころには落ち着いて、みな元の黒い髪に戻っていきます。なぜなら、髪を染めているだけで、実習先からマイナス評価を受ける可能性が、当時は、あったからです。そのため、先生方は、実習が近づくと、髪の毛の色を元に戻すよう指導していました。もちろん、髪を黒くしなくても実習に行くことはできます(髪の毛の色で実習ができないなどあり得ないので)。しかし、学生たちは、みな、先生方の勧めに従って髪の毛を黒に戻していたのでした。

 ところが、その指導に従わない学生(男子)が現れました。大胆にも、黄色い髪のままで実習に行くというのです。理由は、要するに、「黄色の髪が黒くなってしまったら、『自分』ではなくなるから、黒い髪にはなれない」ということでした。私は、この学生からとても大切なことを学びました。それは、髪の毛の色は(多分、髪形も服装も)、その人にとっての『自分(人格)』なのだということです。そう考えると、他人から髪の色や服装を強制されたときに、自分という人間(人格)が侵害されたと感じる人がいても、けっしておかしくはないのです。

 「その髪の色は、相当なハンディになるかもしれない。だから、実習態度でそのハンディを跳ね返すしかない。人より余計に、頑張るように」と話して、彼を実習に送り出しました。

 実習中、実習先を訪ねました。保育園の先生方からとても良い評価を受けていました。彼は、真摯に頑張ったのです。


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2022年7月11日 (月)

【学長からのメッセージ2022.7】「まあ、いいか」について(最強編)

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星美学園短期大学

学長 阿部健一


 「まあ、いいか」最強編・・・と言っても、あくまで私個人にとっての最強編であることをお断りしておきます。

 私が小学校2年生の時、3年生のN君、5年生のM君と一緒にハゼ釣りに行きました。干潟につくと、まず、ハゼ釣りの餌となるゴカイを取ります。ゴカイというのは、ミミズを平たくして毛を生やしたような虫で、干潟に穴を掘って住んでいます。その穴を目当てに干潟を掘り返して、ゴカイをつかまえます。これは、遊びにもならない単純作業で、ハゼを釣るための苦行です。

 ふと、手を休めて周りを見ると、N君は、全然ゴカイを取っていないのです。「N君も、ゴカイとってよ」と言っても、まったく無視です。私は、だんだん腹が立ってきました。そして、M君に言いました。

「N君は、全然ゴカイを取らないんだから、釣りさせないようにしようよ」

 その時、M君だって思いは一緒と、完全に思っていました。

 M君は、明るい声で、私の目を見て言いました。

「いいじゃない。みんなでしようよ」

 思いがけない言葉に、返す言葉を失いました。そして、自分の言ったことが、なんだか無性に無性に恥ずかしくなりました。この時受けたショックは、その後の私の生き方にも影響したように思います。そういう意味で、M君の「まあ、いいか」は、私にとっては、最強なのです。

 私が40代のころの出来事です。夜遅い電車の吊革につかまっていました。と、突然、隣の若い女性が首を下に傾け、嘔吐したのです。吐瀉物が、真正面に座っていた、身なりの良い、60代と思われる男性の膝の上に飛び散りました。

 男性は、ハンカチを取り出して、膝の上の吐瀉物を丁寧に拭い始めました。その後の場面は、まったく記憶に残っていないのですが、その男性が、少しも動じることなく、静かに吐瀉物を拭っている姿だけが、なぜか強烈な印象として残っているのです。

 多分、自分もそうありたいと思ったのかもしれません。無理だとは思いますが・・・。私にとっては、その紳士の行動は、今日までの、最強の「まあ、いいか」になりました。

(次回、8月号は、お休みです。)


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2022年6月14日 (火)

【学長からのメッセージ2022.6】「まあ、いいか」について(自分編)

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星美学園短期大学

 学長 阿部健一


 日々を、おおむね「まあ、いいか」で過ごしている私なのですが、「まあ、いいか」で思い出せる体験は、たった1つしかないことに気づきました。

 ずーっと前の、あるクリスマス・イブ。私は、「降誕祭夜半のミサ」に参加するため、車で、職場(星美ではありません)から教会に向かっていました。その途中で、急に車線変更してきた車にぶつけられてしまったのです。相手は、痩せた年配の男性で、「ごめんなさい。許してください」としきりに頭を下げるのです。つまり、「どうか見逃してください」ということなのです。世の中のルールとしては、見逃してはいけないのだけれど・・・と少し躊躇しましたが、ここで警察を呼んだりしたら、ミサに出られなくなってしまうと思い、「わかりました。いいですよ。行ってください」と言ってしまいました。車のことより、ミサ優先だったわけです。この優先順位は、私が、車のキズを余り気にしない人種だということも大いに関係していたと思います。

 人の車にぶつけたことがあるかというと、あります。2件も。しかし、運良くというか、奇跡的にというか、2件とも「事件」になりませんでした。つまり、相手の人が「たいしたキズじゃないからいいですよ」と言ってくれたのです。2件とも。その2つの車には、共通点があって、すでにキズのある車でした。つまり、私が事故を起こした相手方は、2名とも、私と同じ、「車のキズ?まあいいか」族だったのです!!

 クリスマス・イブにぶつけられた私の車は、どうなったのでしょうか。明るいところで見ると、意外とキズがクリアーで、家族から「みっともない」という大ブーイングが沸き起こりました。仕方なく修理しました。かなりの出費でした。でも、残念に思ったり、後悔したりすることはありませんでした。私の識別の結果、そうなってしまっただけのことであり、その識別が間違っていたとも思えなかったのです。


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2022年5月24日 (火)

【学長からのメッセージ2022.5】「まあ、いいか」について(モノの編)

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星美学園短期大学

 学長 阿部健一


 自分が大切にしていたモノが、自分のミスで、壊れたり、傷付いたりしたとき、みなさんは、どんな気持ちになりますか。あるいは、自分が大切にしていたモノが、他人のミスで、壊れたり、傷付いたりしたとき、みなさんは、どんな気持ちになりますか。

「しかたない。まあ、いいか」と即座に諦めることができますか。それとも、「なんでだ?なんでなんだ?」と、しばらくは、自分を責めたり、他人を責めたりしながら、悶々としたときを過ごしますか。でも、だからといって、さすがに、一生涯、悶々とし続ける人は、いないと思います。人間、いつかは、諦める時が来ます。そうであれば、早く諦めるのが、得策ではないでしょうか。

私の母の口癖は、「形あるものは、壊れる」です(まだ存命なので現在形です)。それは、母の母の口癖だったそうです。私もその流れを受け継いでいるようで、モノが壊れたり壊されたりしたときには、その言葉が自然に口をついて出てきます。

「形あるものは、壊れる」、この言葉は、モノが壊れたという現象は誰のせいでもなく、モノであることの「定め」が今ここに顕れたに過ぎないということを意味しています。

自分が大切にしていたモノが壊れて、苦しむのは、自分の欲からモノを見ているからで、そこから離脱して、「モノの定め」という本質に心を向けるなら、壊れたことは、寂しく、悲しくはあるけれど、なんら特別なことではなく、自然なこと、当たり前のこととして受け入れられるのではないでしょうか。


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学長からのメッセージ

2022年4月 9日 (土)

【学長からのメッセージ2022.4】幸せを感じるときは、どんなとき

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


 少し前の話ですが、「幸せを感じるときは、どんなときですか?」という質問を受けました。一瞬答えに窮しましたが、自然に出てきた答えは、「問題が解決したときです。」でした。自分ながら、「なんという消極的な幸せだろうと」と思ってしまいました。これでは、まるで、押し寄せる問題の波間にアップアップし、何とか、波と波の間に息継ぎができたときが「幸せ」と言っているようなものではありませんか。

  子どもの頃は、違ってました。日常が、一点の曇りもなく、ただ「幸せ」でした。夜、寝るときは、早く明日にならないかなと、わくわくしていました。

 大人は悲しいです。そうはいきません。日常が「問題」です。「問題の波間で息継ぎができたときが幸せ」となってしまうのも、やむを得ないと思いますし、大人の幸せとは、そういう幸せでよいのではないかと思います。

 しかし、もし、解決は無理という問題にぶつかったら、どうしましょうか?

「解決できた幸せ」は、不可能です。

 私も、何回か、そのような問題にぶつかりました。

 私の場合は、神様に委ねることにしています。

「これは、私には無理ですので、神様にお任せします。そのかわり、あなたが出した答えを、無条件に受け入れます。」

 このやり方で、不思議なことに、自分の力では無理と思われた問題が、意外にも、あっけなく解決していきました。

「天におられるあなた方の父が、ご自分に求める者に、善いものを与えてくださらないことがあるだろうか。」(マタイによる福音7・11)


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学長からのメッセージ

2022年3月 9日 (水)

【学長からのメッセージ2022.3】終わりのときがある希望

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


「はーるよこい、はーやくこい」・・・雪国の冬は、とてもとても長いです。

いつかは、きっと春が来るという希望を失わずに、じっと耐えます。

春の気配を感じたときの悦びは、それだけに、ひとしおです。この悦びは、雪国の長い冬を経験した人でないと、きっと、本当には、わからないと思います。

雪国の冬は、あらゆるものがひっそりと静まりかえる「静」の世界です。人の声も、無響室のように雪の中に吸いこまれます。

長い「静」の世界にも、終わりのときが来ます。

世界が鼓動を打ち始めます。

雪解け水の、絶え間ないおしゃべりが聞こえます。

春霞の空に、うなり凧のハミングが聞こえます。

やさしい春の風にのって「長持唄」が聞こえます。

 

神様は、どんなものにも、例外なく、終わりのときを用意してくださいました。

楽しい季節が終わり、辛い季節が訪れても、それもまた、必ず終わりのときを迎えます。

私たちが、いつも希望を失わないでいられるのは、神様のおかげだと思います。


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学長からのメッセージ

2022年2月10日 (木)

【学長からのメッセージ2022.2】雪の日の思い出

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


何年か前、私が住んでいる熊谷に大雪が降りました。

夜、外に出てみると、1台の軽トラックが、雪にタイヤを取られて立ち往生しています。50歳前後の男性が、雪の降りしきる中、必死に車を押して、脱出しようとしています。

私は、男性に軽くアクセルを踏んでもらいながら、後ろから押してみることにしました。無事、脱出できたので、運転席のところに行くと、助手席に、娘と思われる高校生がスマホに熱中していました。

私は、その風景に、とても違和感を覚えてしまいました。

「父親があんなに大変な思いをしていたのに、なぜこの子は、車の外に出て、父親を助けようとしなかったのだろう。この子は、父親が何とかしてくれるはずと、完全に父親を信頼し安心しきっていたのだろうか。“子ども”なら、それもわかる。父親は、娘に、『心配ないから、ここで待っていなさい』と言ったのだろうか。これも、“子ども”なら、わかる。もしかして、この助手席の高校生は、高校生の姿をした“子ども”なのか・・・」

“子育ての不安”を荷台に乗せたまま、軽トラックは、ゆっくりと立ち去って行ったのでした。

********

雪が降ると外に出たがるのは、父のDNAを受けついでいるからです。父は、認知症が進んでも、雪が降ると、特別な、嬉しそうな表情を浮かべていました。

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2022年1月24日 (月)

【学長からのメッセージ2022.1】冬こそは、喜びの季節

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


冬は、しばれる。外に出るのがおっくう。手が荒れる。そんな辛い冬ですが、私は、大好きです。

希望に溢れた喜びの季節だからです。

葉を落とし、冬枯れ姿となった木々に近寄って、枝を見ると、そこには幼い木の芽が息づいて、密かに春を待っています。

なんという感動でしょう。冬こそ、希望に溢れた喜びの季節です。

言葉の世界では、春夏秋冬と、季節の姿はデジタル化されてしまいます。

でも、季節の実相は、冬の中にすでに春があり、春の中にすでに夏があり、夏の中にすでに秋があり、秋の中にすでに冬があります。

言葉に操られたデジタル思考によって、私たちには実相が見えにくくなっています。

冬の中に春が、夜の中に朝が、闇の中に光が、苦しみの中に喜びが、すでに射し込んでいるのです。


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学長からのメッセージ

2022年1月11日 (火)

【学長からのメッセージ2021.12】「私のもの」とは?

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


前回、私のショルダーバックは、牛革からバッグに仕立てる人、革となる牛を育てる人、牛が食べる餌をつくる人などの手を通して私の前にあるというお話をしました。

私たちは、「私のショルダーバック」、「私の服」、「私の友人」・・・などと「私の」という言葉を普通に使っていますが、よくよく考えてみると、完全無欠に「私のもの」と言えるものなどはなく、私が「私のもの」と言うものは、結局、「私のところに来てくれたもの」と考えるのが正しいように思います。

「私のところに来てくれたもの」と考えるとき、私たちに感謝の気持ちや大切に思う気持ちが生まれます。大切に思う気持は、「来てくれたもの」の幸せを思う気持ちです(たとえそれが物であっても)。

「私のもの」、だから大切に思う、ということもあるかもしれません。しかし、その「大切に思う」は、結局は、自分を大切に思うことで、「執着」といえるでしょう。

「私のところに来てくれたもの」は、その定めとして、「去りゆくもの」です。「私のところに来てくれたもの」と受け止める人は、別離の哀しさはあっても、去りゆくものの幸せを思い続けるでしょう。

一方、「私のもの」と考える人は、「去らせたくない」、「手放したくない」という執着に苦しむことになるでしょう。

私たちの世界は、「私の」という言葉のマジック囚われて苦しんでいるようです。たしかに「私のもの」なるものは、形式的には存在するでしょう。けれども、実質的・本質的には、「私のもの」と本当に言えるものは、ないのです。「この島は、私のもの」と言っても、たしかに形式的にはそうかもしれませんが、実質的には、地球の地質変動が生み出したものであり、やがては同じ理由か、または浸食によって消え去るものです。

「私のもの」という言葉の呪縛から逃れるとき、私たちは、もう少し自由に、幸せになれるのではないでしょうか。


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学長からのメッセージ

2021年11月29日 (月)

【学長からのメッセージ2021.11】「私」は「自分の体」で生きている?

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星美学園短期大学 学長 阿部健一


私の目の前に、私が購入したショルダーバッグがあります。

さて、このショルダーバックは、私のものでしょうか・・・などと言うと、ちょっと、大丈夫ですか?と心配されそうですが、このショルダーバックの生まれを辿れば、革を縫い、バッグに仕立てる人がいて、さらにその向こうに、革となる牛を育てる人がいて、さらにその向こうには牛が食べる餌をつくる人がいて・・・と、このショルダーバッグが今ここに在るために、多くの人の手を経ていることがわかります。私は、そのショルダーバッグをお金と交換したので「私のもの」と思っていますが、本当は、多くの人の手を経て私のところに「やってきたきたもの」と考える方が自然なのだと思います。

鏡を見ると私の「体」が写ります。

さて、鏡に映っている「体」は、私のものでしょうか・・・などと言うと、これまた、ちょっと、大丈夫ですか?と心配されそうですが、この「体」の生まれを辿れば、気の遠くなるほどたくさんのご先祖様を経て「やってきたもの」であることがわかります。

本当のところを考えてみると、「私のショルダーバック」にしても、「私の体」にしても、さらに前回のテーマ「私の命」にしても、「私のものです」と、軽々しくは決められないようです。軽々しく決められないのであれば、、むしろ、「私のものではない。たまたまやってきたものである」と割り切ってしまうこともひとつです。

「私のもの」と決めるところから「執着」が生まれ、そこからさまざまな心の苦しみや争いが生まれて来るのですから。

最後に・・・、「執着すること」と「大切にすること」とは違います。「執着しないこと」と「大切にしないこと」とは違います。

次回考えてみましょう。


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